いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

いい加減に困る!<4>(ボストン篇)<いい加減な国では話し合いこそが重要だ>

いい加減に困る!<3>(ボストン篇)の続きです。

 

僕が住んでいたアパートメントの管理人さんはとてもいい加減な人だった。いい加減な人であるが故に、いい加減な状況に対する対応もいい加減にやってくれる人だった。いい塩梅という意味でのいい加減のようなところもあるけれど、きっとこの管理人さんが日本にいたら、住民たちからの苦情の嵐だけでなく、管理会社の面接にも落ちるのだろう。きっと面接に2時間くらい遅れるのだろうから。そんないい加減な管理人さんを育んだいい加減な国であれば、もっと混乱が起きそうなものだけれど、なんだかんだといい塩梅に回っているのは、論理に基づいた話し合いを重視しているからかもしれない。論理的な話を屁理屈として嫌う国の場合は、ルールだけが問題になるのだろう。

 

困ったことがあった。

 

いい加減さということであれば、他にも比較的近くのアウトドアショップで、FILSON(フィルソン、アメリカのアウトドア系衣料メーカー)のジャケットを買ったときにも思ったことだった。買ったジャケットのスナップボタンがいつの間にか取れていた。普通のボタンであれば自分でつけるけれど、スナップボタンは自分ではつけられない。アメリカは返品文化だ、自分たちの管理や製造のいい加減さを返品システムによって補完しているという側面がある。よくできたシステムだ。もちろん、このシステムはときに悪用され、返品文化に対する批判的な意見も出てきたようだ。で、このアウトドアショップは、返品文化に対して批判的な店だった。そう、アウトドアの店で返品を受け付けたら、アウトドアでの休日を楽しんだ人が返品してくる可能性もある。つまり、ここでは返品不可だった。

 

そんな返品不可というルールのお店に、僕は返品を申し込んだ。もちろん、お店のルールとして返品は不可である。返品不可であるお店のルールに素直に従って、僕はすごすごと帰るかといえば、もちろん、そんなことはしない。僕には買って二週間でスナップボタンが取れる商品を扱う方がどうかしていると思えたというのもあるし、アメリカでの生活にも慣れていたので、まずは、論理的に話してみることで何かが変わることに期待してみた。僕のアメリカ生活はだいたい論理と弁論で解決したのだ。

 

「買って二週間でスナップボタンが取れてしまったから、返品したい」「返品は受け付けない」「NO! いやでも、二週間でスナップボタンが取れるのは、お店の責任でしょう?」「この店で買ったのか?」「そう、領収書もあるし、カードで買ったから店の記録にもある筈だ」「たしかに、うちで買ったようだ。でも、返品はできない」「NO! 二週間で壊れる商品を売っておいて、返品ができないという理由が知りたい」「フィルソンなら、本社に送れば無料で修理をしてくれるのだから、私たちではなくフィルソンに言うべきだ。生涯保証がフィルソンの売り文句なのだから」「NO! 僕はもう時期、帰国する。フィルソンの修理がいつになるか分からないまま待つことができない。そのため返品したいのだ」「返品はできないが、近所にとても腕のいい修理がいるから、そこで直してもらったらどうだ?」「NO!

 二週間で壊れる商品を売ったのはあなたの店なのだから、なぜ私が修理をしにいかなければならないのだ。私は返品か交換を希望する」「修理代はこちらが出すから、返品や交換はできないという店のルールを守って欲しい」「もし綺麗に修理できるのであれば、それでも構わないが、時間がかかったり、修理ができないということであれば、返品か交換を希望する」

 

とそんなやりとりをしていた。この時点で、最初にあったお店のルールを盾にとった応対の拒絶とは別な方向になっていた。きっと、店員さん個人の判断で、二週間でスナップボタンが取れたことに対する僕の要望は正当だと思ったのだろう。その後、店員さんと言っても髭もじゃのマッチョなおじさんが、近所の修理屋に行くとあいにく不在だった。

 

「いまはいないから修理はできない。フィルソンに送れば修理じゃなく、新品の物を送ってくるだろう。フィルソンは日本にも送ることができるだろうから、フィルソンに送ってみてはどうだろうか?」

 

と僕の突破口になる提案があった。このロジックを僕は見逃さなかった。

 

「フィルソンに送れば新品になって返ってくるのであれば、なにも僕が時間を気にしながら送らなくても、あなたがフィルソンに送ればいいんじゃないか? であれば、僕はこの店のものと交換してもらえればいいし、僕の着ているジャケットをあなたがフィルソンに送って新品の物を手に入れてお店で売ればいいじゃないか。」

 

きっと、日本だったら、このような理屈は、屁理屈として認められないだろう。屁理屈という言葉は、まさに理屈嫌いの日本らしい言葉と思う。もしかしたら英語にもあるのかもしれないが、英語で理屈を話したときに、理屈を話すことを批判されたことはない。ここはアメリカ。理屈が大好きな国だ。僕の理屈に対して、髭もじゃのおじさんは嬉しそうな顔をした。「その通りだ」と言って、お店を案内してくれた。同じタイプのジャケットであればどれにしてもいい、ということなので、買うときにはどちらの色にしようか迷った方に交換した。今ではやっぱり最初に選んだ色の方が良かったのではないか、と思っているけれど、このときは、僕は僕で話が通じたこと、論理や理屈が通じたことに対する喜びもあったものだから、違う色にすることもまた一興という感じだった。おじさんも喜んでいたし、僕も喜んでいた。弁論などを重んじる国というのは、多少なにか変なことがあっても、正々堂々と話せばどうにかなるものだ。

 

いい加減に困る!<5>(ボストン篇)に続きます。