いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

クレーマーに困る!<二>(自閉症児篇)<クレーマー対応係がクレーマーになる>

クレーマーに困る!<一>(自閉症児篇)の続きです。

 

市役所とやりとりをしていたら、なんだかクレーマー扱いされているようだった。弁護士からの手紙の冒頭を読むと、これ、クレーマーに出すやつだと思った。そこにある文言を調べてみたら判例とかも出てきてますます面白くなってきて、寝不足気味です。しかし、クレーマーとはなんだろうか。理屈っぽい僕はクレーマーになりやすい、もちろん、僕はクレーマーだと自分のことを思っていない。

 

困ったことがあった。

 

「そんなふうに生きていて疲れないか?」と聞かれることがあるけれども、これも理屈っぽく答えてしまうと、「こんなふうにしか生きてきていないので、比較ができない、ただ毎日疲れるというには、僕のようじゃなくても多くの人が言うのだから、きっと同じように疲れていると思う」というのが率直な答えになる。面倒な人間らしい。

 

そんな僕でもなんだかんだと歳をとり、理屈のなさや論理のなさが日常の中にあってもあまり気にしないようになってきた。まあ、それも、日常というのは理屈に合わないことがあるが、そのような矛盾の中において人々の関係は成り立っていることもある、という理屈によるものだ。子供の頃の理屈よりも、もう少しだけ大きな理屈に立っただけかもしれない。定義を更新しただけかもしれない。

 

クレーマーの話に戻ろう。

 

戻ろうと思ったけれど、僕がクレーマーになった話はあとにするとして、僕がクレーマーと呼ばれる人たちの相手をしていた時の話というか、いろいろな職場で、僕はクレーマー対応係にされるため、クレーマーと、人をクレーマーにしてしまう人にそれなりに会ってきた。職場でクレーマー対応係にされることと、職場のトイレや排水溝を掃除する係になることはもしかしたらどこかに共通点があるのかもしれない。人が嫌がることという共通点なのかもしれない。

 

電話番のある仕事をしていると、クレーム対応は心を病むなんて言われたりする。僕は病んだことがない。その日に落ち込むこともないし、腹が立つこともあまりない。たまに話が通じなすぎて困ることもあるけれども、そういう場合は、電話口の向こうの人も話が通じない奴と話すことになって困っているかもしれない。まあ、たまに、認知症などの病気で話が通じない人もいるから、そういう場合には配慮も必要だと思った。こんなことを書いていたら、僕がシフトに入っている曜日に僕宛に電話をかけてくるおばあちゃんを思い出してしまった。仕事中だから10分だけね、と言って話していた。暇な時はもう少し話していたかもしれない。孫になったみたいだった。もう亡くなっているんだろうと思う。少ししんみりしてしまった。

 

クレーマーにも何種類かいるけれど、クレーマーはだいたい怒っている。対応に怒っているのか、会社に怒っているのか、世間に怒っているのか、世界に怒っているのか、その辺はよく分からないこともあるけれども、だいたい怒っている。怒っている人には何を言ってもだいたい怒ってしまうので、話を聞くのが一番安全だったりする。すっきりさせるというやつだ。とはいえ、毎回毎回、すっきりの相手にされるのも仕事の邪魔になってしまうから、すっきりさせた後にどうにかして、ここはすっきりする場所じゃないことを伝えなくてはならない。すっきりした相手というのは、なんだか今度は聞き分けがいい人になっていたりするものだから、今度は怒らない感じの要件で電話してもらうように誘導する。これがクレーマーと思われる人を顧客にするやり方なんだと思う。いつもうまくいくわけじゃないけれど、僕はこれがうまいとされていた。たぶん、僕をおだててとても怒っている人の相手をさせるために褒めていたんだと思う。

 

クレーマーに、こちら側の正論をぶつけるのは得策じゃないと言われるけれども、それは正論と思っている論理に問題があったりもする。怒っているからといって理性を失っている人ばかりじゃない。たまにこちらが用意した論理の隙をついてくることがある。そうするとますます燃え上がる。焚き木を差し出しているようなものだ。「上司を出せ」みたいに言ってくる人タイプは、こういうこちらが用意した隙のある論理で盛り上がってしまっていることが多い。つまり、相手からしたらこちらが悪いということだ。自分が間違っていないと少しでも確信している人に対して、隙だらけの論理を出してももう無理だ。そしてそんな状態になっている人の相手を、上司でもなんでもない僕がやることになる。クレーマー扱いされてしまった人の相手だ。

 

隙だらけの論理しか会社から用意されていないし、上司でもない僕が苦情の相手となったら、さらに燃え上げる。燃え上がった人の言い分にも正しいものもある。少なくとも、こちらの論理の一部に落ち度があったのは確かだ。しかし、盛り上がっている人は、ひとかけらでも自分の正しさ、つまりは相手の間違えを見つけたら、もう相手の全部が信じられないという感じになってしまう。それは仕方ないことだと思う。そうなると何ができるのだろうか。

 

素直になるしかないと思う。

 

そして、素直になりすぎて、後で上司に怒られたりする。素直になりすぎて、相手から指摘された間違いに対して、「それは、間違ってますよね!」とか嬉しそうに言ってしまう。僕も常々思っていた会社のおかしい理屈を批判してもらってちょっと嬉しいというか同志を見つけた気持ちになる。非を認めると相手は盛り上がるか、と思いきや、鎮火していくことが多い。で、その間違えは間違えとして認めた上で、どう建設的な話にもっていくのか、というのが腕の見せどころだ。間違えを認め、かつ、それでも自説の正論を出すのではなく、相手との一緒に考えてよりよいところを探す。時間はかかるけれども、それがなんだかんだとうまくいったりする。この場合は、上司に怒られるけれど、そもそも間違った論理を信じている上司に怒られるのだから、何言っているんだろ? と思ってしまう。クレーマーとされてしまった人の方がよっぽど人として信頼できる。

 

クレーマーに困る!<三>(自閉症児篇)に続きます。