いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

いい加減に困る!<2>(ボストン篇)<いい加減な国でも論理や理屈は好きらしい>

いい加減に困る!<1>(ボストン篇)の続きになります。

 

自分が育った環境から離れて生活をしてみると、異なる文化、習慣に不満を抱いてしまうことも多々ある。もともと、ちょっと神経質な僕は、ふだん簡単にできていたことが、よく分からない理由でできなかったりするときに、イライラとして文句を言ってしまう度量の狭さがある。しかし、考えてみれば、異文化じゃなくても、なんだかおかしいと思うことには、子供の頃から、理屈をこねて批判してきた。まあ、屁理屈と言われて僕の理屈は黙殺されてばかりだったけれど、三つ子の魂なんとやらで、いまでも屁理屈ばかりこねている。

 

アメリカでも屁理屈をこねまわしていた。TDバンクで口座を作ったときも、僕の口座は作られていないという主張に対して、僕は屁理屈ならず、理屈をこねた。

 

困ったことがあった。

 

僕が口座を申請せずに、そしてありもしない口座があると主張しているのであれば、完全に僕が間違っている。いや、それは間違いもなにも、ちょっとおかしい人だろう。きっと日本であれば、そんなおかしい主張をする人はあまりいないという前提のもと、顧客データや当時の記録などをすぐに参照してくれたかもしれない。しかし、アメリカにはそういうおかしな人がちょくちょくいるし、そういうおかしな人を真正面から受け入れる度量がある。その度量のせいで、僕の状況はあまり理解されなかった。そう、僕はちょっとおかしな人として当初は優しく扱われ、次第に業務の邪魔であるとして、ソファへの移動まで勧められた。

 

口座の申請を受けていないとTDバンクの窓口の人が主張していた。目の前にパソコンのモニターがある。ちなみに、僕は妻と一緒に口座を作った。妻にはとっくにキャッシュカードが送られている。僕が窓口に来たのは、アメリカあるあるのヒューマンエラーで僕のカードを郵送し忘れて銀行にあるとか、僕の部屋の鳴ったり鳴らなかったりするインターホンを適当に押して返事ないと思った配達員が銀行に返送しているかもしれない、と思ったからだった。妻の口座はデータとしてあることが確認できた。そしてそのデータには僕の名前もカード番号もないということを見せるために、受付の方は僕にモニターを見せてきた。すると、そこに僕の電話番号があった。

 

口座開設の申請がないならば、なぜ、僕の電話番号がTDバンクのデータに入っているのだ? と聞いてみた。それは分からないという答えだった。僕はこれが突破口になると思った。そして日付や状況を補足的に説明すると、それまで僕をやさしく接するべき人間だと思いつつも多少苛立っていた窓口の方も、さすがにちょっとおかしいと思ったのか、マネージャーを呼んできた。僕らが口座開設をしたときのマネージャーとは違う人だった。マネージャーもおかしいことに気がついた。そう、口座に関係ない人の電話番号が記載されていることは明らかにおかしいことだったからだ。もう一度調べ直して、結果は、あとで連絡するということだった。

 

その後、TDバンクから連絡が来て、以前のマネージャーが僕の書類を途中までしか入力せず、引き出しに書類を入れたまま、引き継ぎもなく辞めてしまった、という話をしてきた。引き出しは鍵がかかっていたから業者を呼んで開けたらしい。その後、無事、口座の申請はシステムに書き込まれ、最速でカードが送られてきた。まあ、システムに問題があったのではなく、人間に問題があったというアメリカあるあるだ。

 

こういうことはアメリカではたびたび経験する。しかし、アメリカの場合は、論理的に話せばだいたいのことが解決する。その場で、個人が納得できるものであれば、システムやルールにないことだとしても、システムやルールやその運用に何か問題がある筈だ、と考えてくれる。日本の銀行ではこういうことはあまりないだろうけれども、もし日本で同じことが起こったとしたら、僕がいくら窓口で論理的に説明したとしても、「ルールなので」と言われて突破の糸口になるかもしれないモニターに映る顧客データも見せてもらえなかったろう。免許証やパスポートなどを持っていたとしても見せてもらえなかったに違いない。

 

このようなヒューマンエラーが起こるのは、文化の違いというのか、管理の杜撰さというだけのことなのかはわからないが、個人の力で最終的には解決できてしまうからかもしれない。結果的には解決するため、管理を徹底する必要がないのだろう。逆に、個人の判断の裁量を大きくし、柔軟化し、比較的自由な状態で仕事ができるようにして、予想外のトラブルに備えているということかもしれない。アメリカのシステムの真髄はじつはこういうところにある気がした。その場でいくら気の毒な人と思われるような人の話であっても、自分が納得するに足る論理があれば、モニターを見せるし、内部の事情すら説明し、カードの郵送なども規定以上の速さで行う、これらはシステムにあるのではなく、個々人の判断で行っていたのだろう。

 

個人が納得できるのであれば、ルールやシステムにないものでもどうにかなるのがアメリカのいい部分でもあるけれど、もちろん、辞めてしまったマネージャーのように、ルールやシステムにない好き勝手なことをやる個人もいる。そのせいで僕もトラブルに見舞われるのだから、個人が強すぎるのはどうか、と思う人もいるかもしれない。僕は今でもどちらがいいのか分からないけれど、最終的には、といっても論理が通っていれば、迅速に解決するアメリカ式の方が僕には合っているような気もしている。日進市の場合は、いくら論理的に説明してもルールはルールということで個人的な納得とかそんなことでは何も変わらない。そして、僕の論理に一定の妥当性を認めたとしてもその場では変わらず、来年度以降に見直すという流れになる。論理的におかしいとしても、その年度内に見直すことなどはしないのだ。どちらの方が杜撰なのだろうか。

 

いい加減に困る!<3>(ボストン篇)に続きます。