いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

息抜きに困る!<下>(ボストン篇)<息抜きは劇場なのか、友人との会話なのか>

息抜きに困る!<中>(ボストン篇)の続きになります。

 

海外での育児で、なんだかひとりぼっちな気持ちになった。育児鬱とかそんなだったのだろう。そんなときに、パパ友ができた。彼も妻の仕事でボストンに来て育児をしている人だった。散歩くらいしか息抜きがなかった僕に、ポエトリーリーディングや観劇を息抜きにしていると教えてくれた。それはいい、と彼と一緒に観劇することにした。

 

困ったことがあった。

 

パパ友と演劇を見に行くことになった。最高の気晴らしだ。開演前まで詩人の話で盛り上がり、ニューイングランド地方の詩人のことなどを聞いていた。そう、街を歩いていても、たまに名前を目にした詩句などにあった詩人たち。日本でもたまに見かける句碑みたいな感じで、詩がそこらへんに書いてあるのを、英語もよく分からないのに、何度も読んでこういうことかな、とか思っていた。これも気晴らしだった。よく分からなかった詩人たちのニューイングランド地方でどんな感じで愛されているのかと教えてもらった。これで散歩もまた楽しくなる。

 

舞台は、「フランケンシュタイン」を元にしたもので、僕は僕で小説のフランケンシュタインくらいは読んでいたから、原作付きは助かったけれども、なんだか、原作にあった格調高さがなく、ただ暴力的な感じになっていたことにちょっとひいていた。いまもそうかもしれないけれど、一時期のドイツ演劇にあるような暴力性の焼き回しに思えた。しかし、舞台と客席の距離が近いのか、客席からも批判的な反応なども出たりするので、日本で演劇を見るのとはちょっと違う感じがあった。内容が違うというよりも、客席が反応するかしないかという違いと言ったらいいのかちょっと分からないけど、僕自身、少し批判的に舞台を見ていたこともあって、同じように思っている人がいることに言葉は分からないながら、知らない人たちと同じものを見て、何かを感じていることが分かち合えた気がして楽しい時間にもなった。

 

舞台が終わって、パパ友にどうするみたいにすると、ジョッキを傾けるジェスチャーがあったので、二人で飲みに行った。そして飲み屋でさっき見た舞台の感想を言い合っていた。英語とフランス語混じりという奇妙でもどかしい会話だけれど、お互いに思っていたことが伝わったと思う。楽しい気晴らしだった。

 

舞台などを見に行く気晴らしと散歩の気晴らしは何が違うのだろうか。舞台そのものは、そんなに知的な刺激があるわけでもなく、そもそも僕も知っているフランケンシュタイン原作なのだから、新しい発見があるというよりも、少々がっかりするような内容でしかなかった。それに比べたら、散歩は知らないことだらけだし、歴史や詩が刻まれているのを発見したりと、知的好奇心は散歩の方があった。だけれど、パパ友と見に行った演劇の方が、僕にとってはなによりも気晴らしになっていた。

 

育児の孤独、孤独といっても、乳児はいるし、妻もいるのだから孤独ではない。では何が孤独を感じるのかといえば、育児だと、自分が道具とまではいかないまでも、必要なことをやることに追われ続けていて、いつもあれをやらなきゃ、これもやらなきゃと追い詰められている。そんな中で孤独になるのは、僕の中にある何か別の不要の物とでも言えばいいのか、実用には適さない、けれども、何かを考え、何かを語り合うような、目の前の何かから離れたところで、生き生きとする何かが孤独になっていたということかもしれない。

 

このなんだか分からない僕の何かを孤独にしないためには、散歩ももちろんいいのだけれど、詩や文学、演劇などを人と語り合うことが孤独を感じさせないのかもしれない。

 

この観劇以来、パパ友とは劇場に行っていない。それは、僕の方で双子が生まれてしまったというのあるし、彼の方でも二人目が生まれたというのがある。互いに、家を行き来して差し入れをしたり、お茶を飲んだりはしたけれど、一緒に劇場には行けなくなってしまった。そして僕らは帰国した。

 

ふと、彼との気晴らしを思い出したのは、彼の家にも3人目が誕生したという知らせを受けたからだった。いつかまた、今度は、彼らが日本に来るか、僕らがカナダに行くかしたら、また劇場にでも二人で行きたいと思った。

 

こういう息抜きができる友人に出会えたことは、ボストンならではなのか、それとも、たまたま偶然なのかは分からない。山間部の寂しい一軒家に住んでいたら、こういう出会いはもっとないのだろう。山間部であれば息抜きや気晴らしがもっと別のものになるのかもしれない。僕がただ都心部で多くの時間を過ごしたから、劇場とその後の飲み会などが息抜きになるというだけなのだろう。