いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

孤独に困る!<下>(ボストン篇)<主夫、主婦の主張というほどでもないんだけれども>

孤独に困る!<上>(ボストン篇)の続きになります。

 

見知らぬ、そして自分には縁もゆかりもない場所に、伴侶の都合で帯同するというのは、それなりに孤独になるもので、乳児の世話なんかしていたら、その孤独を埋め合わせるものすらなかなか見つからない。好きにしたらと言われても、何が好きなのかも分からなくなるもので、日頃の価値観のせいで何か有益なことをしようと思ってしまうものだから、また袋小路の孤独に捕まってしまう。そんなボストン生活、乳児育児の中で僕はどうしたらいいのだろうと思っていた。

 

困ったことがあった。

 

妻の仕事場は、海外で働いていた人が多い。多くの人が数年間、海外で勤めて、そして日本に戻ってくると、縁もゆかりもない土地で職を得るというのは珍しくない。彼、彼女たちはその道で活躍しているし、仕事も楽しそうにしている。そしてお互いの伴侶の話が出たりするらしい。

 

「うちのは子供教育に熱心で」

 

「うちのは趣味が多過ぎて」

 

「うちのは習い事が」

 

「うちのは服やバッグが」

 

「うちのは旅行が」

 

そんな話で盛り上がっているということだった。

 

ボストンでも日本でも、ホームパーティをやる人たちが多いから、僕も参加した。その度に、帯同者代表として、主婦、主夫の気持ちを代弁してというか、僕の気持ちを隠さずに言って、帯同者たちから拍手されることが多かった。僕ら帯同者は、本来いた場所を失い、そしているべき場所も見つからず、それなりに楽しんでいたとしても、心の底から楽しいなんて思うこともない、育児に疲れ、やりたいことも見つからない、そもそも自分が望んでそこにいるわけじゃない。やる気があっても、ささいなことで、子供の泣き声ひとつで諦めてしまうことが多い。異国の地で、あるいは見知らぬ土地で、孤独に乳児の世話をした人なら分かる一種の虚脱感は、なかなか伴侶に伝えることができない。伝えるときにはいつも文句や苦情みたいになってしまうから、それを避けようとして我慢している。口に出したら喧嘩になってしまう、だってどうにもならないことだからだ。

 

そのため、多趣味になってしまったり、余裕があれば散財してしまったり、子供に集中してしまったりする。虚脱感や孤独を埋めるために必死なのだ。

 

僕の場合は、昔から本さえ読めればいいと思っていたから本だけで十分とか言っておきながら、乳児の世話をしながら集中した読書は難しいということで、高校生のときに好きだった服の趣味がぶり返した。服ばかり買っていた。そんな僕を妻は微笑ましく、あるいは同情するように見ていた。

 

「服を買っても外に着ていく用事もないのに、服を買うと用事があるような気がする」

 

そんなことを言って服を買ってニコニコしていた。満足していたのか分からないけど、それまでやらなかったことをやることが虚脱感を埋めていたのは確かだった。

 

妻は仕事仲間に僕の話をするらしい。そうすると、多くの場合は男性だけれども、彼らは少し反省するらしい。彼らの伴侶がなぜ多趣味になったのか、なぜ散財するのか、なぜカフェ巡りをするのか、なぜ旅行に行くのか、なぜ子供の教育に熱心になるのか、そういうことの理由がわかるらしい。

 

あるとき、ボストンの主婦主夫仲間から感謝された。僕の開き直りに似た意味不明な衝動の説明がピンと来たらしく、以来、彼女も開き直っているそうだ。妻の日本の職場仲間の主婦からもこの間、はげしく賛同された。最初にホームパーティーで会ったときには子供の世話ばかりしていた彼女だけれども、この間会ったときには「週1日、完全育児放棄の休日を設けるようにしました!」と嬉しそうに言っていた。その日のパーティでは子供を夫に任せて、大いに飲んで、語っていた。夫の方も嬉しそうだった。

 

そう、帯同者は、もう少し、自分勝手になっていいと思う。異国や見知らぬ土地にポツンと自らの所属先を持たない孤独を味合わった者にしかわかり得ないものもある。その出力や表現が多少いびつであっても、虚脱感の埋め合わせなのだから、それぞれが勝手にするしかないのだろうと思う。

 

そうそう、中には、そういう主婦、主夫の気持ちが分からない人もいる。「俺だって異国の地で頑張っているんだ」とか言っちゃう人はなかなか危ない。その人の帯同者がというよりも、きっと、その人はそのうち孤独になってしまうだろうから。そういう人もいた。育児も仕事も家事もこなしているつもりになっているタイプだ。ぜんぶこなせているつもりというだけで危険信号が出ていることに本人だけが気がついていない。