いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

大変さに困る!<1>(ボストン篇)<育児マウントをとりたいわけじゃない>

「育児は、そう、大変なんだ」(長女7ヶ月)

 

困ったことがあった。

 

僕は育児の困難さを話すのが上手くなってきたような気がする。何年も育児の困難さを言い続け、ブログでも書き続けているからだと思う。

 

ただ最近、なんだか僕の主張が強すぎるのかしつこすぎるのか、ちょっと僕が痛い人というか、大袈裟な人というか、確かに痛くて大袈裟な人なんだけれども、うまく伝わっていないことがあるような気がしてもやもやとしている。

 

僕の育児の話は、ちょっと特殊になりがちだ。

 

5ヶ月やそこいらの乳児を伴って、ボストンで子育てになった。長女は自閉症だった。その後に、ボストンで次女三女が双子として生まれたものだから、異国の地で三姉妹の乳幼児を抱えることになった。こうなると、誰がどうみても、「大変」だと判断される育児になってしまう。

 

しかし、そんな多くの人に大変認定を受ける育児の中で、「大変なんです」と言うと、「育児はみんな大変」「みんな頑張って育児をしてきたのよ」みたいな反応をされることもある。この反応は現役で育児をしている人というよりも、うちの母親などの年配の方からされる。たぶん、よくある育児でへこたれている人に「いまどきの若者は」みたいなニュアンスでやや非難も含んだ反応をとってしまうだけかもしれないけれど、僕は僕でムキになってしまって、「俺の方が大変だ」みたいな妙なマウント合戦に発展することもある。本当は、こんなマウントはしたくないのに、なぜだかそうなってしまう。

 

抱っこ紐で長女を抱いて歩いているだけでも「いまどきはこういうのがあるのね」と話しかけられることもあった。ここまでなら育児文化の発展について楽しく話せるけれども、そのあと妙な展開になることがある。「私の頃は、男の人が赤ちゃんを抱っこして歩くとか考えられなかった。いまの人はいいわよね。育児が楽になって」となると、うん? みたいな気持ちになって、「はあ、ええ、まあ」と見知らぬおばさまを慰める言葉をかければ良いのか、「はい! 育児が楽になりました!」とか、あるいは「今は今で、昭和の頃のように子供を放置することもできないので大変ですよ。昔は楽ですよねえ、保育園も子供だけで通えましたし」とか言って舌戦を繰り広げるのかと迷いながら、言葉を知らない赤ちゃんの手を取り「バイバイだねー」と立ち去る。この会話はなんだったんだろう? と思いながら。

 

育児は大変という大きな前提がある。

 

1人あるいは2人など大人だけで生活してきた中に、何から何まで世話しないといけない存在が現れるのだから、大変なのは決まっている。どう大変かというのは人それぞれだけれど、それまでの生活様式が変更されるという意味で大変になる。

 

赤ちゃんの場合は、命の危険もあるのだから、命を預かるということも心労になる。

 

誰かの世話をするというのは、育児じゃなくても大変だ。親の介護も大変だし、ペットの世話にしても大変だ。自分以外のことをするのは、なんでも大変だと思う。ときには自分のことですら大変だと思うことだってある。

 

大変さに困る!<2>(ボストン篇)に続きます。