大変さに困る!<1>(ボストン篇)の続きになります。
育児の大変さ、困難さは、状況で分かる部分もあれば分からない部分もある。そもそも大変さというもの自体そういうものかもしれない。互いに助け合うという前提がない中で、育児の大変さを競い合い、比べ合うようになってしまうとなんだか寂しい関係しかそこにはないような気もする。そして、大変さはどうやら育児から抜け出て、他の大変さとも向き合うことになる。
困ったことがあった。
子育てをしている友人と、独身の友人とオンラインで飲んでいた。2人とも50歳を超えた立派な大人たちだ。次の日は日曜日ということもあって、少し遅くまで飲んでいた。夜中の0時を過ぎたあたりで、「明日は休日とはいえ、育児もあるから、そろそろ」みたいな話が出た。そして僕は「子供が小さいと休日の方が疲れますよね」みたいなお約束トークをした。すると独身の友人が「独り者だって大変なんです」と結構、真顔で言っていた。
独り者でも大変なのだろう。僕も独身時代、それはそれで毎日大変だった気がする。休日が特別大変だったと思ったことはないと思うけれど、自分のことだけで精一杯だったと思う。独身時代に、子供が生まれた友人たちと話しながら「休日の方がたいへん」みたいな話は定型句のようなものかと思って聞いていた。張り合うつもりもなかったし、実際にこどもを見ていると、「こりゃ、俺には無理だ」なんて思ったりもした。本を読むことができないのは当たり前として、1人で出かけることもできない、ごろごろすることも許されない、トイレで頑張っていても開けられてしまう、外からの開錠はこどもの指だとやりやすいらしい、おちおち排泄もできやしない、鍵に手をかけて開けられないようにしていたら、外から「うんちしたいー」と言われて途中で断念して交代したのに、こどもは「でなかったー」と嬉しそうにしている。こんな生活が僕がするとは思わなかった。休日が特に大変というのはこういうことなのだろう。
もちろん、独り身だって大変だ。大変なのは分かる。ある年齢になると友人だけじゃなく、家族やら、そしてテレビやネット、SNSで、子育てマウントを取られることに、苛立つこともあるだろう。「子育てのない独り身は気楽でいいよね」みたいなことを言われて、暗い気持ちになることもあるだろう。そういう意味で大変だと思う。
大変を分けてみよう。精神的な大変さと物理的な大変さ。仕事でもこの大変さは分けられていると思う。問題なのは、精神的な大変さに対して人は無頓着だったりするから、精神的な大変さを抱えた人に対するケアが疎かになってしまうというのがある。そのため十分なケアが受けられないことによって、他の大変さと比べて、なんだか変な言動になりやすいのかもしれない。大変さが理解されていないというのと、大変さが言語化されていないため客観的基準が周囲も本人にも分からなくなってしまっているのだろう。
最初に、子育ては大変だ、ということを基本にしたけれども、基本にするのは、生きるのは大変だ、ということなのかもしれない。
しかし、これはこれで弊害が生まれる。生きるのは大変ということは、みんな大変という論理を導き出し、みんな大変という論理を強引に推し進めると、誰のことも配慮やケアをしなくていいということになってしまう。恐怖の方程式が誕生してしまう。これだと、なんでもかんでも自己責任ということになる。
社会制度などで、なんでもかんでも自己責任ということにしてしまったら、福祉はいらなくなってしまう。みんな大変なんだから、ということで助け合いもなくなってしまう。みんな大変、そして自己責任という流れにある論理は尊重はするけれども、そういう考え方が衝突する問題はとても多い。絵本レベルで衝突してしまうだろう。人とうまくやる上ではなかなか困難な主張になると思う。つまり、信頼できる友達がいなくなる。困った時に助けてくれる友人がいない、そういう環境を自分で作ってしまっている。それがこの論理が行き着く場所なのだろう。
基本においた「生きるのは大変」は、それはそれな感じの大きな前提として、必滅の理くらいの前提として、小学生あたりの全てを解決する魔法の呪文「どうせ死ぬし」(小学生の頃、この呪文を唱えた回数の多さは世界記録を狙えたかもしれない)みたいな前提として受け止めておいた方がいい。生きているものであれば誰しもが当てはまることは、方程式でならったように、括弧でくくってしまおう。
そうなると、何が大変なのか、ということを比べる必要が出てきてしまう。これがなかなか難しい問題だ。精神的な大変さと肉体的な大変さの区別もつけられないし、そもそも困難さには、主観的な困難さと客観的な困難さがあることを考えると、区別は難しい。「俺が大変だと思っているのだから大変なんだ」という極論にだって一分の理がある問題だ。
大変さに困る!<3>(ボストン篇)に続きます。