いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

診断に困る!(自閉症児篇)<困っている人に合わせられる社会になるといいなあ>

「病名がついちゃうのは...」(長女2歳5ヶ月)

 

困ったことがあった。

 

長女はアメリカで自閉症(オーティズム)と診断された。アメリカでは1歳半から自閉症の診断がされるが、日本では3歳くらいにならないと診断はされないらしい。診断されるまでは様子見と言われることが多いと聞いていた。

 

アメリカでの診断がされる少し前から、早期介入という療育を受けていたこともあって、発達や言語の専門家らの指導を受けていた。そのときに、専門家に付き添ってもらって聴覚検査を受けたり、食のプログラムに参加したりと、日本の発達障害自閉症への取り組みから考えると手厚いフォローを受けていたと思う。

 

発達障害自閉症に関しては、それぞれの国やまた医師の考え方によってもまちまちで、診断や社会的な制度を含めて日々更新されていることもあって、はっきりと言えないことも多い。そのため発達障害自閉症は多くの誤解もあるし、認識不足があるのも仕方のないことでもある。実際、僕の認識も間違えていることもあるし、誤解していることもある。

 

帰国して、まず僕らが優先的に行動したのは、長女の環境を整えることだった。新しい環境に馴染むのは大人だって大変だし、自閉症の場合はより困難になりやすい。何もしないでおくと、「みんな一緒」という昔ながらの呪文で誤魔化されてしまうことがある。

 

長女には診断が必要だった。日本だと診断されることによって、やっとフォローの対象となることも多い。手帳があるかどうかで対応が変わるのも変だけれども、弱者への配慮を特権とみなす文化では、なんだか分からないけど、公的な正式な証明証が求められる。困っている人を助けるということが自然にできない文化なのかもしれない。

 

僕の義妹は保育士なので、発達障害自閉症児に対してどのようにしたらいいのかという相談もしていた。彼女が言うには、支援が必要な子供でも親御さんが発達障害自閉症であることを認めないために支援がしにくい子供がいたりするということだった。加配保育が必要な児童の親に加配申請をしてもらうだけでも大変という話も聞いた。

 

そんな義妹だけれども、長女に自閉症や知的障害という「診断」が出ることには消極的だった。

 

「病名がついてしまうのは、その後の進学などの可能性が狭まってしまうので、もう少し様子を見てからでもいいかもしれない」

 

この考えは、そんなにおかしいことじゃないだろうし、僕らも日本にいたらそう思っていただろう。彼女はとてもいい人だし、長女のことを心配して言ってくれているのだと思う。

 

アメリカだと、発達障害自閉症に関しては早期介入が効果的とされていて、診断も1歳半からされるんだよね。まあ、アメリカは日本ほど、障害を持っている人に差別的じゃないし、差別をする方が物凄い批判を浴びるから、障害があるなら障害があるとして権利を求める方が協力的というのもあるかもしれない」

 

彼女の長男。つまり僕の甥も、発達障害だった。

 

甥の場合は、できるだけ様子見して、小学校に入るときに発達障害が指摘された。そしてその後、発達障害と知的障害が診断された。

 

「うちもアメリカみたいに早期介入をしていれば、もう少し楽にさせてあげることができたのかなあ」と義妹は言っていた。

 

とても難しい話だと思った。早期介入が効果的だと制度的に考えているアメリカと違って、日本では発達障害自閉症、軽度の知的障害は「子供はみんなそう」というような感じで様子見にしてしまうし、結果、それがいいこともある。甥に関しては僕も発達障害じゃないかと思っていたけど、身内とはいえ、弟の家族の問題に強く意見するのも憚れたので、「発達障害かも」くらいしか言っていなかった。甥は支援級に通っている。

 

発達障害自閉症に関しては年々取り組みが変わっているし、どうしたらいいのか分からないこともたくさんある。ただ、本人や家族が困っていたら、診断なり支援なり必要なことを求めるのはおかしいことじゃないと思うんだよね」

 

日本とアメリカという別の考えや環境にいるからこそ、僕らはそんなふうに思えただけなのだろう。

 

長女の診断に行った。

 

「3歳までは発達障害自閉症の診断はできません」

 

やっぱりそんな対応だった。アメリカで自閉症の診断を受けたことを話した。また、こんなんことをいうのはいやらしい感じがしていやだったけれども、ボストンのチルドレンホスピタルという世界的に権威のあるところの診断書も持参して見せた。

 

担当の医師はちょっと焦ったような感じになって、専門知識を披露してきた。アメリカではこうこうだからどうのとか言っていた気がするけど、僕らにとってはよく分からない考えの違いを述べられても困るなあと思っていた。

 

ASDと軽度知的障害ですね」

 

日本だと、ASD自閉症スペクトラム)という言葉をよく聞くけど、アメリカではASDという言葉はあまり聞かなかった。だいたいオーティズム(自閉症)だ。なんで、日本だとASDという言葉がこんなに浸透しているのか分からない。

 

そのへんのことはさておき、長女に「診断」がくだった。そのときは東京だったので、愛の手帳(愛知では愛護手帳)が交付され、長女の環境を整えるために必要な書類も揃ってきた。

 

義妹に愛の手帳を見せると、複雑な表情をしていた。きっと、彼女には、保育士としてやってきたこれまでの対応と、そして甥にやっておけばよかったと思うことが、そもそも矛盾したものになってしまったということへの当惑があるのだろう。

 

答えがでないことというのはある。そして答えがでない中で選択をしていかなくちゃいけないというのが現実だったりもする。そのときに重視するのは、本人や家族の状況であって、社会の常識や要請ではないとも思う。社会に人が合わせるというのもあるけど、基本的には人に社会が合わせるものだと僕は思う。特に困っている人がいるなら、困っている人に合わせられる社会こそが良い社会なんだと思う。