いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

言葉の爆発に困る!(自閉症児篇)<診断を受けていても、誤診を願ってしまう>

「長女の言葉が突然増えてきた」(長女3歳6ヶ月)

 

困ったことがあった。

 

長女はなかなかしゃべってくれなかった。1歳6ヶ月あたりでも発語がないため、ベビーサインなどで意思疎通を図っていた。「もっと」や「水」、「食べたい」など、限られた単語だけれども、癇癪を起こして何十分、あるいは数時間泣かれるより、数単語のベビーサインで意思疎通ができるのは僕らにとっても良かった。

 

もし日本で子育てをしていたら、「そのうち言葉が出る」とか「様子見しましょう」とか、「言葉は個人差が大きい」とか言われてしまい、ベビーサインを使おうとは思えなかったかもしれない。そして、3歳近くまで「様子を見て」しまい、自閉症や知的障害が診断される。一年以上の空白期間の責任を誰がとってくれるのだろうか。心配しすぎと親を責めた人たちが何かをしてくれるわけでもない。

 

2歳5ヶ月で帰国して、日本で暮らすことになったときに、ベビーサインを使うのをやめてしまった。それは、保育園でも療育でもベビーサインが通じないからだった。長女が必死でベビーサインをしていても通じないのであれば、長女にとっても辛いことだろう。そのため早めに家庭内でもベビーサインをやめた。

 

長女は僅かだけれども英語の幼児語を発するようにもなっていた。「水」は、英語で「ウォター」とカタカナで書くと分かりにくいけど、英語の幼児語では「ワーワー」になる。これも保育園や療育では使えないので、英語の幼児語もやめるようにした。

 

この二つの言葉をやめたことで、長女はとまどってしまったのかもしれない。もちろん、アメリカにいたときには、長女とは日本語で話していた。しかし、どうしても英語でのふれあいもあるため幼児語は英語になっていた。といっても、ほんの僅かな単語なのだけれども。

 

一般に、バイリンガルは言葉が遅れる、とも言われている。僕らも最初は自閉症や知的障害ではなくバイリンガルだからかもしれないと思っていた。しかし、周りのバイリンガルと比べても明らかに言葉が少なすぎた。一般論というのはあまり信じない方がいい。

 

自閉症や知的障害の子供を育てている人の多くは、きっと、発語と言葉についてたくさん悩んでいると思う。他の子と比べて落ち込むことがあると、「子供はひとりひとり違うから、他の子と比べないで」とか言う人もいる。もうこういうことを言ってくる人には何も言う言葉が僕の方で見つからないので、「ああ、そうですか」とやりすごす。たまにしつこい人がいると、自閉症や知的障害などのことを説明することもあるが、だいたいそういう人は黙ってしまう。きっと心の中では「過保護な親がキレた」と思っているのかもしれない。または、「こういう親が子供をコントロールしようする毒親になるに違いない。かわいそうだ」とかまで思われているのかもしれない。はじめから平行線なのだろう。

 

長女が通う保育園でも、僕らは「心配性な親」だと思われていた。自閉症や軽度知的障害の診断がおりているのにも関わらず、長女の言語の遅れについて話すと、「子供はみんなそう」「言葉は個人差がありますからね」とか言ってくるのだから、もうどう説明すればいいのか分からない。もしかしたら、最近話題の大人の発達障害とか人格障害とかの一種で、認識能力に何かしらの障害があるのかも? とか思ってしまうくらいだ。電車とかでベビーカーにキレるおじさん本人に何かしらの問題を感じてしまうように。

 

長女はそんな環境の中で保育されていた。

 

しかし、そんな厳しい環境が功を奏したのか、または「子供はみんなそう」派が正しかったのか分からないけれども、長女が突然、言葉を話し始めた。単語数が急に増えて、三語文まで出てきた。

 

僕と妻はとても浮かれた。もしかしたら、本当に、ただ、人よりゆっくりなだけで、自閉症でも軽度知的障害でもなく、バイリンガルだったから言葉が遅れていただけなんじゃないか、長女は非定型発達ではなく定型発達だったんじゃないか。

 

障害児の親は診断がおりていても、どこかでその診断が間違っていれば、と願うものだ。

 

「子供はみんなそう」「言語の発達は多少ばらつきがある」とか、そんな希望的なセリフは頭の中で何十回も何百回も繰り返し浮かんでいる。ただ、目の間の子供を見ていると、そのセリフが口に出せないだけなのだ。

 

児童発達センターに行った。長女の言語の爆発に僕らは浮かれていたし、長女も言葉の認識がかなりできるようになっていたということもあって、育児も以前よりは楽になっていた。きっと、もう、自閉症や知的障害の診断が取り下げられるかもしれない。そんなことを思っていた。

 

「1歳6ヶ月程度ですね」

 

長女は3歳6ヶ月。2年ほど言語認識の発達が遅れているようだった。やはり、長女は自閉症で軽度知的障害だった。

 

僕らは長女の発語に浮かれてはいたけれど、実は少し気がついていた。次女と三女は1歳5ヶ月である。定型発達である次女と三女に言語の発達が追いつかれそうになると、少しだけ長女の方が先に行く。だから、長女が3歳6ヶ月の発達より遅れているのは分かっていた。

 

けれど、それなのに、長女が定型発達であって欲しいと思う気持ちが、そういう現実から目を逸らせようとしてしまう。

 

次女三女の発達が早いだけなんじゃないか、と妻と話したことがある。実際に、次女三女はいろんなところで発達の早さに驚かれている。だから、長女が遅いのではなく、次女三女が早いということかもしれない、と親の願望が出てしまった。

 

予想はしていたとはいえ、検査の結果に僕らはがっかりしていた。

 

そんな僕らの気持ちを知ってか知らずか、長女の言葉はどんどん増えていった。育児が格段に楽なったし、言葉を発するようになって長女の癇癪やパニックも減っていった。今でも同じ年齢の子と比べると長女の言葉は少ないし、言葉の意味もよく分かっていないこともある。また保育園で保育士や友達から何かを言われて理解できずにパニックを起こしてしまうこともある。

 

ただ帰宅時に、トイレに行ったか、お昼ご飯を食べたかなどの質問も理解できるようになって、教えてくれる。激しく泣いているときにも、時間はかかるけれども、何かあったか言葉で聞いて問題にたどり着けることも増えてきた。長女は確実に成長している。

 

僕らも一般論や願望で長女を見ずに、そこにいる長女を見なければならないと改めて思うようになった。