いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

平等に困る!<下>(ボストン篇)<アメリカの公平性>

平等と公平は何が違うんだろう。障害児や多胎児、それに多子世帯だとしても、日本というか愛知県のとある市では、「子どもは一緒」「子育て世帯は一緒」ということで、平等に扱われる。つまり、公平な配慮はないということだ。それでいいと思う人もいるだろうし、なんかおかしいと思う人もいる。答えがでないなら、答えを出さずに考えればいいと思うけれど、行政ではすでに答えが出ていて、その答えである平等は揺るがない。公平ということを考えるつもりもないようだった。ボストンではどうだったろうか?

 

困ったことがあった。

 

長女の発達は少し違った。

 

日本の友人たちに相談すると、「赤ちゃんはそんな感じだよ」とか「気にしすぎだよ」とか言われたものだけれども、アメリカの友人に相談すると、すぐに発達障害などの相談を受けるように言われた。みんな一緒とは言わなかったけれど、「うちの下の子どもも通っている」とか「孫の1人が自閉症なんだ」とか言われた。そういえば、寒い季節に上着を着せようとすると感覚過敏で泣き叫んでしまう長女に対して、通りすがりのおばさんが、「うちの娘も子供のとき、そうだった。自閉症だから感覚過敏だったのよ」としばらく話し込むとそんなことも言ってくれた。日本だと、「子どもはみんな一緒、お父さんお母さんが気をつけてあげないよね」と通りすがりの人になぜか説教される。

 

長女はその後自閉症と診断され、早期介入のプログラムを受けることになった。これは全部無料だった。

 

このようなプログラムに対して、人はエコ贔屓だと言うだろうか。それにその後に関してもボストンであれば、さまざまなプログラムやフォローがあるらしい。その子やその家庭に対しての細かい制度的介入もある。そういえば、金銭面に関しても、年収と扶養人数に応じて、多様な福祉サービスがあった。年収がそこそこあっても子供の人数によって困難なことを行政が把握していて、それぞれの条件や環境の違いを考慮したフォローをする。これがアメリカの平等ということだった。

 

スタートラインの平等とゴールの平等という分け方がされることもあるらしい。

 

こういう違いを、平等と公平と分けることもある。ネットで探すと、この違いを表すわかりやすい絵があった。スタジアムかどこかで何かを観戦している人が3人いる。3人とも背の高さが違う。その人たちにどんな踏み台を与えるか、という絵だった。

 

平等では、同じ高さの台を与える。人によっては高すぎるし、小さい人からすれば、その高さの踏み台をもらっても観戦はできない。公平では、それぞれの高さに応じて踏み台を与える、というものだ。これはわかりやすいと思った。

 

このことから、日本は平等、アメリカは公平、という違いがあるように思った。もちろん、例外はいくらでもあるし、日本でもよく考えている人は公平になるように配慮しているし、アメリカでも機械的な人は平等を押し通してくる。ただ、これは僕の個人的な感想にすぎないのだけれども、日本で、とくに、障害児や多胎児という子どもを育てていると、行政の「平等」なあり方に違和感があるし、なんかおかしいと思うことが多々あったし、アメリカにいたときには、ここまで細かく状況に応じて判断してくれるのか、という「公平」なあり方に助けられもした。

 

平等が悪いわけじゃない。平等であることは大事だと思う。ただ平等でおかしいのは、というか、そもそもおかしいのは、困難を覚えている人に対して「平等」を理由に拒絶したり、排除したりするのは、ちょっとおかしいんじゃないかということだったりもする。公平がエコ贔屓に思えてしまうこともあるかもしれないから、公平には論理的な説明が求められるし、透明性も必要だと思う。平等も公平も誰かを助けるためにある考えなんだと思う。そこを間違えちゃいけないと思った。あと、アメリカは自由と公平の国と、これからは言い換えようと思っている。日本は、どうしようか、安心と平等の国、という感じかもしれない。