いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

余所者に困る!(新築篇)<お土地柄に合わないなら引っ越すしかない>

「下町の人情はなかなか表に出てこない」(長女4歳4ヶ月、次女三女2歳3ヶ月)

 

困ったことがあった。

 

名古屋市に住んで1年が経った。アメリカで住んだ2年間以上にトラブルが多かった。引越しも管理会社も名古屋営業所の対応がひどかったので、関東圏にある本社に連絡して対応してもらった。アメリカでのトラブルは文化の違いなどもあるけれども、言った言わないみたいなことが元で起きることも多い。そのため、メールなどの文書でのやりとりに持ち込めば、担当者は逃げるにしても、別の担当者や上司みたいなのが出てきて解決する。彼らは記録が残るやりとりで誤魔化してしまうと大変なことになるということをよく知っている。そんなことから、できるだけ文書でのやりとりをしないようにしている感じもした。

 

でもトラブルになってきたら、メールでのやり取りなどで、残っている記録や書類の問題などを具体的、論理的に説明して解決する。嘘をついたり誤魔化したりした担当者がその後、どうなったのか分からないけれども、アメリカ人の友人に聞くと、アメリカはすぐに馘首になるということだった。

 

名古屋もアメリカに似ている文化だった。違いは、文書でのやり取りになって、やりとりが記録されているにも関わらず、誤魔化してきたり、対応が違う人になっても、前任者を庇うように誤魔化しを続けてしまうところだった。

 

これはこれで人情深いのかもしれない。会社の中でお互いに助け合って、庇い合う、それはそれで美しい人間関係があるのかもしれない。しかし、利用者や顧客としては、組織ぐるみで誤魔化しているように見えてしまう。これは組織ぐるみの犯罪みたいなやつですか? と名古屋市役所に言ったことがある。

 

名古屋市役所の対応はそんな感じだった。数ヶ月のやりとりで結果としてはこちらの最初の要望が合法といいますか、そもそも当たり前のことだったということを認めてもらって、長女に対する合理的配慮が行われるようになった。国で認められている法律に従って欲しいという要望に対して数ヶ月時間がかった。そんなに時間がかかったのは、初動の対応のミスを誤魔化すためだったんだと思う。最後まで最初の担当者を庇って、言い訳ばかりしていた。そういえば、合理的配慮がなされる話し合いが終わったときに、市の職員が「このくらいのことをなぜ最初にやらなかったんだろう?」とぼやいていた。専門家の方もそう言っていたし、僕は最初からそう言ってたんだけれども、組織防衛が先に立ってしまって、目の前の要望を検討しなかったということなんだろう。

 

そんな名古屋市に疲れてしまって、名古屋にゆかりのある友人たちに相談していた。

 

名古屋市から一歩出るだけで、雰囲気も気質も違うよ」

 

そんなことがあるのだろうか。

 

僕は東京が長かった。東京の多摩地区に15年、そのあとは、杉並区や新宿区、品川区、文京区、豊島区と住んでいた。豊島区といっても場所によって雰囲気は多少違った。仕事では、台東区や足立区でもよく働いていた。

 

考えてみれば、東京でもお土地柄のようなものは結構違っているかもしれない。

 

多摩地区は育ったところでもあるので、そこの悪さも良さもあまり分からない。とくに僕が育ったところは治安が悪く、他の地域の友人たちからは「スラム街」と呼ばれていた。思い出してみるとスラム街的エピソードはいくつかある。アメリカの本場のスラム街ほどではないけれども、ボストン近郊の荒れた街を見ては、育った地域を思い出して、妙な居心地の良さを感じていた。

 

スラム街は僕には居心地がいいけれども、妻や子供たちには怖いところかもしれない。僕に居心地がいいのは、その辺にいるやんちゃな人たちも、知り合いや、知り合いの子供だったりなので共同体の中に僕もいるから身の危険を感じにくいというだけだろう。つまり、僕が余所者じゃないというだけだ。

 

住み心地が良かったのは、20歳くらいで住んでいた新宿区と、30歳代を過ごした文京区になるけれど、新宿は独り身だったから住むといっても生活らしい生活はしていない。ただ終電を気にしないでよかったから住みやすかっただけだ。文京区が良かったのは僕の仕事に都合が良かったからだろう。

 

居心地の悪さを覚えたのは、台東区だった。足立区よりも台東区だった。足立区は足立区で育った地域の空気と似ているので僕は好きだった。台東区はどことなく排他的で頑固なおじさんおばさんが多い印象だった。困っている人を助けない空気がある。これはいま住んでいる名古屋市のとある地域とそっくりだ。道は譲らないのが基本。やたらとジロジロ見てくる。挨拶しても返事もせずに立ち去ってしまう。そんな地域は、下町と呼ばれていることが多い。下町の人情はその共同体にどっぷり浸からないと味わえないのかもしれない。

 

飲食店でバイトをしていた頃に、男前の中国人がいた。彼は日本語が堪能で、貿易の仕事をするための勉強をしているということだった。少林寺拳法をやっていたということで、足がすごい高くまで上がった。かっこよかった。

 

その彼から住んでいるアパートで困っているから助けてほしいと言われた。近隣からよく文句を言われて、ゴミを漁られるということだった。外国人ということもあって、自分には分からないルールを違反しているのかもしれないから、地域のルールやアパートのルールなどを確認してくれないか、ということだった。

 

彼のアパートに行ってみた。ゴミの分別のことを言われるみたいなので、僕もチェックしてみた。問題なかった。騒音に関しても聞いてみたけれども、彼は0時くらいには寝ているそうで問題もなさそうだった。彼のアパートのゴミ捨て場を確認しているときに、近所の人がジロジロ見てきたので話しかけると、そそくさといなくなってしまった。

 

そこは荒川区だった。

 

「下町は閉鎖的なところもあるから、外国人じゃなくても住みにくいと感じることがあるよ」

 

そんなことを言って、別の地域をすすめた。いろいろと話を聞いて、高円寺あたりをすすめた。彼は引っ越した。

 

「高円寺、すごいいいよ! 楽しいし、あいさつもしてくれて、友達もできたよ」

 

当時は、そんな話を当たり前のように聞いていた。そうだろう、高円寺なら余所者にも優しいに違いない。そんなことを思っていた。

 

いまになって、ふとそのエピソードを思い出した。20年以上前の東京はそんな感じだった。余所者に住みやすい地域とそうでない地域というのはあった。

 

僕は名古屋の余所者だ。そして、いま住んでいる場所はきっと、20年くらい前の台東区荒川区みたいなところなのかもしれない。彼にアドバイスしたように僕も引っ越すことにした。名古屋の高円寺はどこだろう。

 

いや、名古屋市から出よう。そんなことを思っているときに、僕よりも名古屋市にストレスを感じていた妻が住宅展示場のプリキュアショーで、ハウスメーカーの営業さんに捕まった。

 

「ここ余所者にきついところらしいよ。市外を薦められた! 家建てよう!」

 

急展開で家を建てることになった。土地勘もない中で土地探しからはじめます。