いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

望郷に困る!<2>(ボストン篇)<異国の地や見知らぬ土地での生活>

望郷に困る!<1>(ボストン篇)に続きです。

 

長女が生まれて数ヶ月で、渡米。ボストンに二年間住むことになった。育児のことを軽く見ていたのか、異国の地で二年間住むことを軽く見ていたのか分からないけれど、移住して数ヶ月もしたら、僕はノイローゼになっていた。とにかく辛かった。妻の言葉も、友人たちの言葉も僕には攻撃的な言葉になってしまった。乳児以上に取扱注意な存在になっていた。

 

困ったことがあった。

 

持病、失業、育児、異国。この四つのどれが大きな問題なのか、僕には区別することもできず、ただただ、疲れて、辛く、不満ばかりの日々となった。妻もそんな僕をどう扱っていいのか分からないようだった。僕がアメリカの文句を言うと、妻が謝っていた。その度に、「君が建国した国じゃないのだから、謝る必要はない」とか言っていた。

 

いま住んでいる愛知県にしても、僕の住み慣れた場所じゃないし、文化も違うし、知り合いも少ない。そのため、愛知県、とくに名古屋に対して文句を言うこともよくあるけれど、まあ、主に名古屋走りについての文句が中心なんだけれど、これはもうなんていうか、妻もその日の危険運転についてのネタがいつでもあるから、非名古屋人同士が集まると決まって話されるネタとしてそれなりに楽しんでいる。ウィンカーを出さないとか、一時停止をしないとか、左右確認をしないで曲がってくることとか、名古屋走りあるある。それに名古屋、特に僕が住んでいた熱田区への文句は、名古屋が日本三大都市というのもあるからハードルが上がっている分、他の地方都市よりも寛容性などが当然あるだろうと思い込んでいたから出てしまった不満であって、巷説に言われる「名古屋は大きな田舎」ということをそのまま踏まえれば、どうということもない、田舎の排他性というだけだ。名古屋走りにしたって、田舎であれば普通の運転だと思う。それに、熱田のような下町であれば、東京の下町、とくに足立区や葛飾区あたりと比べれば同じような感じだ。違いと言えば、東京だと足立や葛飾の人たちは自分たちのやばさをネタにするけれど、熱田の人はネタにできない、というくらいで、名古屋はそういう自虐ネタというか、冗談が通じにくいという雰囲気があるということだと思う。もう少し、ユーモアがあれば、名古屋はもっと愛される都市になるのになあ、と余計なことを思う今日この頃だ。

 

何が言いたいかというと、名古屋は見知らぬ土地であったとしても、ボストンほど孤独な気持ちになることはない。文化の違いといっても、東京と名古屋の違いなんて微々たるものだ。どこか知っている違いでしかない。名古屋の嫌な部分は東京にもある。東京の東側の文化に似ているのは、東京の西側のような外から来た人たちが圧倒的に多い新興住宅地や若者が多い街というのがまだ少なく、外から来た人たちで形成される街の歴史が浅いというのがあるのかもしれない。これはフィラデルフィアに行ったときに、ボストンが閉鎖的だという批判を聞いたことにもつながるかもしれない。ニューイングランド地方は、古い地方というのもあって、閉鎖的な感じがあるらしい。西海岸が好きな人は、東海岸の閉鎖性や特権意識を批判したりする。もちろん、そこでもアメリカの中西部などは田舎としてネタになるし、テキサスの人が「テキサスはアメリカじゃない」と言って話すネタは、笑っていいのかどうかも分からない。

 

僕がホームシックなのか、育児ノイローゼなのか、糖質制限による倦怠感なのか、よく分からない状態で、漠然と日本に帰りたいと思っている頃に、たまに顔を出していた無料の英語教室で知り合ったテキサス人に癒されていた。いつも笑顔で自慢のテキサス自虐ネタを陽気に話しているおじさんの話は、物騒な話も多かったけれども、アメリカ人でも、ボストンに来て違和感があるのか、というか、そもそもテキサスに対してアメリカが違和感を持っているのでは? というのはさておくとして、テキサスのイメージこそが、アメリカみたいに映画などで宣伝されているからか、テキサス自虐ネタは癒やされた。テキサスはアメリカじゃないというのは不思議な気持ちになった。ボストンの閉鎖性こそアメリカの一面なのではないかというのは、ボストンで暮らしたり、アメリカの歴史を読んだりしていると思うけれど、ボストンくらいの都市になると、閉鎖的といっても、いろんな人がいるもので、いろんな人たちがそれぞれの孤独を抱えていることが分かってきた。

 

望郷に困る!<3>(ボストン篇)に続きます。