いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

凸凹発達に困る!<5>(自閉症児篇)<グレーゾーンには何が必要なのだろう?>

凸凹発達に困る!<4>(自閉症児篇)の続きになります。

 

長女は、軽度知的障害のため、障害者としての支援を受けている。長女の場合は、主に言語認識能力が低いということで軽度知的障害の認定がおりているけれども、他の面では、発達も順調。子供たちだけで眠ることもできるし、トイレも大きい方は1人ではまだできないけれど、小さい方であれば1人でできる。着替えも1人でできるし、最近では料理もしようと頑張っている。こうなってくると、普通の6歳児とあまり変わらない。僕は僕で長女の成長が嬉しくて、毎日、長女のよく分からない話を聞くのが楽しみでもある。しかし、それはそれで心配なことも出てきてしまう。

 

困ったことがあった。

 

療育センターからは、次の障害者手帳の更新はもしかしたらできないかもしれません、と言われた。それは長女の発達が現在では、障害者と認定できる状態であるが、言語認識もそれなりにできるようになっていることや、他の面での成長に問題がないということもあって、現在はギリギリ知的障害として認定される点数だけれども、そのうち、今度は、ギリギリで知的障害ではないという点数になる可能性が高いということだった。つまり、グレーゾーンになるということだ。

 

心のどこかで、長女が障害者という認定から外れることを喜ぶ僕がいた。親戚にも友人にも、長女が障害者であっても、それを隠すつもりもないし、障害があるからなんだというのだ、障害者が生きにくいのは障害者の問題ではなく社会の問題であって、障害者であることをつらく思わせてしまうのは、周囲の人たちの問題なのだ、と。僕は僕で子供の頃に、障害者差別の視点を持っていたというのもあって、障害者に対する世間の視線などが分からなくもない。しかし、障害があることを隠したとしても、それで大変になるのは本人なのだ。であれば、障害があることをきちんと社会にも認めさせ、必要なケアを求めることが、本人にとって生きやすくなるはずだと思って、長女の障害と向き合ってきたつもりだ。もちろん、長女の障害が自閉症と軽度知的障害という障害の中でも、生活に支障をきたす機会が比較的少ないものであるから、向き合いやすかったのかもしれないし、また、見た目には分からない程度の障害だからこそ、誤魔化さずに、必要なケアを求める必要があるとも思っていた。

 

軽度知的障害というのはなかなか難しい。本人も周囲も、普通だと思ってしまう。普通であるということはどういうことかというと、言語認識的な責任を問われる主体になるということになる。しかし、知的障害者だとしたら、少なくとも詐欺などの被害にあったときに自己責任を問われることもないだろうし、長女にしても、言語による契約等に注意をするようになる。さまざまな仕事をして、いろんな人たちに会っていると、たまに、もしかしたら、軽度知的障害なのではないか、と思えるような人たちが結構いることに気が付く。難しい話が理解できないというレベルではなく、労働契約や金銭契約のことなど一般的に言語的に理解できるという前提で取り交わされることが理解できていない。賃金の未払いがあってもそのままやり過ごし、契約違反の指示に従っていたりする。失業保険などのことも知らなかったりすし、役所などで支援や援助があることも理解できていない。こういう人たちは、妙な自己責任論だけを信じてしまっているので、誰かに頼る、相談するということもできない。人に馬鹿にされてきた経験のせいかもしれないし、自己責任論であれば少なくも馬鹿にされないと思っているのだろう。自己責任論は悪意によって利用されることが多いことを知らないのだ。もし、この人たちが子供の頃に、軽度知的障害だという診断がされ、適切なケアがされていたらまた違った道を歩んでいたのではないだろうか、とも思う。また言語認識能力が低くても、他の能力で補っていることも多くあるのだから、人間としての尊厳が言語認識能力が低いというだけで踏み躙られることもなかったろうと思う。

 

僕はそんなことを思っているにも関わらず、長女が知的障害ではなくなると言われたときに、少し喜んでしまった。自閉症ではあるのだけれども、自閉症にしても、重度というわけでもない。絵を描くときなどの集中力を見ていると、長女の自閉症はそこまで生きにくいものでもないような気がした。ただ、少し言語認識能力が低いだけで、さまざまな可能性があるようにも思った。

 

しかし、問題は、グレーゾーンになることで、これまで長女をケアしてきた制度が利用できなくなるということだ。障害者のための制度が利用できないことに不満があるというわけでもないし、障害者のためにある制度を障害者でなくなった者が利用するのはいいことじゃない。それはわかっているけれども、グレーゾーンのためのケアというのも必要にも思うというのもある。

 

グレーゾーンのケアに関しては、本人や保護者の責任で行うべき、ということになるのだろう。自己責任論が大手を振ってやってくる。育児は保護者の第一義的責任というやつだ。そりゃ少子化にもなる。少子化になっているのは、保護者や子供に自己責任を押し付けてきた国や自治体の自己責任だと嫌味を言いたくなるものだ。しかし、そんなことを言っても仕方ない、目の前のグレーゾーンが問題だ。僕には何ができるのだろうか。今はまだ障害児としてのケアが与えられているけれども、近い将来訪れるグレーゾーン、単純に言うと、軽度知的障害から、知能指数が低めという状態になる長女に対して、何ができるのだろうか。僕自身は、教育熱心というわけでもないし、学校教育には子供の頃から批判的だった。その分、周囲からすれば、損しているとも言われることも多々あったし、そもそも、僕自身が知的障害かグレーゾーンの人間なのではないかと思っている。ただ僕の場合は、言語認識能力には問題がなかった、いやあるのかもしれないけれど、疑問に思うことは、辞書から法令までとことん調べるクセというのがあって、一般的な言語的な関係で社会とうまくやるということはできなかった。つまり、言語において、面倒くさい人間になっていた。

 

長女と僕は言語認識能力において、今は違っているかもしれないが、長女が辞書を何冊も引くようになったら、言語認識能力の検査に使われている言語に疑問を感じていただけだったと思うかもしれない。そうなると、それはそれで僕が歩んだ道でもある。試験などの問題がある。その問題に回答ができなかったのは、問題そのものに疑問があったということというのもある。

 

話がずれてしまったけれども、言語認識能力が1歳半遅れていると言われ続けている長女が、軽度知的障害でなくなるとき、そこには、言語認識だけではない、あるいは言語認識的世界、ロゴス中心主義と言われる世界から、彼女が少しだけでも解放されたということになるのかもしれない。これを凸凹発達というのかもしれないけれど、本人が望むのなら、その凸凹を大切にしたいとも思ってしまう。