いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

大変さに困る!<5>(ボストン篇)<大変さを比べる暇があるなら、大変な人を助けることにした>

大変さに困る!<4>(ボストン篇)の続きになります。

 

ボストン篇のわりにボストンでの話を書くことができなかった。書くときには、ボストンで育児をしていたら、ボストンでできた友人たちに助けてもらったという話を書こうと思っていた。そのときは、自閉症と診断される前の長女ひとりの育児だったし、大変さといえば、異国での育児という程度でしかない。それでも、はじめての育児はそれだけで大変だし、育児をしているときには他の人の大変さなんて考えることもできなかった。

 

そんな僕がボストンで人から助けてもらったという話。障害児と多胎児の育児という客観的に見て大変だと思われてしまう育児もあるけれども、はじめての育児はそれはそれで大変だ。そんなときに、マウント合戦をしてもしかたない。人に助けてもらって、人を助ける余裕が生まれるのかもしれない。

 

困ったことがあった。

 

はじめての育児は大変だ。大変だからこそ、この大変さよりも大変な環境にある人のことを考えると、助けが必要なレベルだというのが分かる。大変さにもいろいろあることが分かる。大変さを比べることの本当の意味は、マウントを取ることじゃなくて、助けが必要な人を見つけ、助けることを考え、そして行動するということなんだと思う。助けが必要な人と、そうじゃない人を区別するためなのだ。

 

長女が生まれたとき、うちにもっとお金がなかったらどうなったろうか。哺乳瓶足りないとか、ミルクが足りないとかオムツが足りないとか、ベビーベッドを置く場所もないとか、そうだったら助けが必要だと思う。大変さは比べられる。保護者が1人しかいなかったら、大変さは尋常じゃないし、病気の赤ちゃんもいるし、長女よりも重度な障害を持っている赤ちゃんだったら、大変さのレベルは跳ね上がる。「育児はみんな大変」なんて言葉をかけるくらいだったら、すぐに助けに行く必要がある。子育ての責任は親の第一義的とか言って放置するのは、未来において罪をおかしていることになると思う。

 

僕らの場合の大変さは、長女が自閉症だったということ以外は、自業自得というか、妻の仕事の都合でアメリカに行くことによって招かれたことでもある。はじめての子育てを異国の地で行うというのは、それはそれで独特の大変さがあった。きっと、この大変さは、「でも、それって自分で望んで行ったんですよね」とか言われてしまう大変さだ。

 

しかし、ボストンで会った友人たちは、そんな自己責任論や自業自得とかは言わず、異国の地で子育てをする大変さということを、助けが必要だと思ってくれたのか、何も言わないのに助けてくれた。食べ物を持ってきてくれたり、家に遊びに来てくれたり、こどもを預かってくれたりした。とても助かった。ボストンにはこういう良さがあった。

 

大変さは、それぞれだ。

 

明らかに大変な場合は当然助ける必要がある。道に倒れている人に「大丈夫ですか」と聞くことや、明らかに重い荷物を持って階段前にいる年配の方に自業自得などと思うよりも、「持ちましょうか?」と聞くように、すぐに分かる助けが必要な大変さもある。

 

それに大変さを判断する見識がないのなら、わざわざ必要ないことを言う必要もない。子供1人の育児は、障害児じゃなくても、異国じゃなくても大変なのは変わりない。もちろん、大変さが軽減されまくっている芸能人が子育ての苦労話を得意げにしてイラッとすることもあるけれども、多くの場合は、大変さの中で育児をしている。そしてその大変さの中で、自分よりも少し大変そうだな、という人に手を差し伸べられる、差し伸べられないにしても、追い詰めないようにできるくらいの想像力はもっていたいものだと思った。

 

ボストンでの、異国の地での子育ては、そういう大変さに対する考え方の違いを感じた。日本に戻って、異国の地で子育てをしている人についつい困っていることはないか聞いてしまうようになった。困っていない人はいなかった。