いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

大変さに困る!<4>(ボストン篇)<育児の大変さは、やっちまったらどうしよう的な大変さもある>

友人の大変さを考えるとで、育児の大変さとの違いというものも見えてきた。大変さは人によっていろいろとあるけれども、いろいろはなんでもかんでもということでもないような気がする。育児の大変さだけを特権化すると嫌な気持ちになる人もいると思う、しかし、育児が困難な時代における育児の話くらいに受け止めてもらえると嬉しいです。

 

困ったことがあった。

 

育児という不可逆な大変さは、環境によっても左右される。赤ちゃん1人に対して、どのような設備が用意できるのか、対応できる大人は何人いるのか、世話をする保護者の経験や能力は十分か、金銭面のフォローができるのか、各自治体による行政の助けはどの程度期待できるのか等。赤ちゃんの世話に関する大変さの指標をつくることも可能にも思えるくらい、育児の大変さは環境によっても左右される。しかし、どんなに恵まれた環境とはいえ、育児は不可逆な大変さがあることは同じだ。

 

この大変さを緩和することはもちろんできるが、それはだいたいお金で解決できるというものだ。シッターさんを雇うとか、赤ちゃん用の部屋にお世話設備を設置するなど、大変さを軽減することができる。それは、子供1人でも、障害児でも、多胎児でも、お金に物を言わせれば、育児の大変さを軽減することは可能ということだ。

 

しかし、そうなってくると、育児の大変さは、やっぱり自己責任みたいになってしまう。つまり、金がない奴が子供を産むから大変なんだ、というちょっと生意気な中学生あたりが気に入ってしまうような結論。この結論に至る人は、申し訳ないけど、もう少し考えてみたら? としか言えない。子供は誰の物なのか、人とは何か、国とは何か、そんなことをもう少し考えてみると違う答えになるかもしれない。禅に父母未生以前というのがあったと思うけれども、この結論を出す人は過去において、その人の父と母が誕生したことすら否定しかねない。論理的にSF的ななんとかというパラドックスを行っている可能性がある。ターミネーター論理と呼ぼう。

 

いまでこそ、障害児と多胎児の父ということで育児が大変な人の代表みたいに扱われる僕だけれども、長女がはじめて生まれたとき、それは、住み慣れた場所で、助けを呼べば友人や弟家族が来てくれて、経済的には豊かではないけれどどうにかなる状態、育休もとって、万全の状態で育児を開始したにもかかわらず、育児の大変さ、困難さに音を上げた。

 

赤ちゃんは1人であっても大変だ。

 

はじめての育児が大変なのは、赤ちゃん環境を整えることの難しさというのもある。生活のリズムも狂うし、何をしたらいいのか分からない。毎回便の様子を確認し、熱もよく測る、ミルクの温度すら温度計が必要で、沐浴も注意深く行う。赤ちゃんが寝ているときも何か起きたらどうしようという不安に苛まれる。睡眠不足の中、生活もしなければならない。妻が乳腺炎になったり、産後うつになったりする中で、妻のケアもしなければならない。オムツがない、ミルクがない等々、気になることがたくさんある。最初の育児の大変さは特有のものがある。

 

この最初の育児の大変さの印象が強いのか、こども1人を育てた人が育児の大変さで疲弊している人を慰めるように「育児はみんな大変」と言ってしまうのかもしれない。それくらい、最初の育児の大変さは印象が強い。

 

中にはよく寝る子、ミルクなどをよく飲む子などの個体差もあるから、それぞれの悩みを比べることもできない。長女は、寝ずに泣き続ける子だったので、途方に暮れることが多かった。後に自閉症とわかるまでは、「育児の苦労はみんな一緒」と言われるたびに、自分たちの育児が劣っていると言われている気がしたものだった。話を友人に戻すと、彼の休日の大変さを軽く見ている僕もまた、「生活の苦労はみんな一緒」と言って、友人の劣等感を刺激しているのかもしれないのだから、気をつけないといけないと思う。

 

はじめての育児は大変だ。大変だからこそ、この大変さよりも大変な環境にある人のことを考えると、助けが必要なレベルだというのが分かる。大変さにもいろいろあることが分かる。大変さを比べることの本当の意味は、マウントを取ることじゃなくて、助けが必要な人を見つけ、助けることを考え、そして行動するということなんだと思う。助けが必要な人と、そうじゃない人を区別するためなのだ。

 

大変さに困る!<5>(ボストン篇)に続きます。