いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

平等に困る!<中>(ボストン篇)<平等って何だろう?>

平等に困る!<上>(ボストン篇)の続きです。

 

アメリカというと自由と平等の国というイメージがあるけれども、日本も自由で平等の国だと思っている。では、どんな違いがあるのだろう?

 

困ったことがあった。

 

僕は知的な障害があったのか、それとも発達障害があったのか、ただ単に学習が遅れていただけなのか分からないけれど、小学校1年生のときに字が書けなかった。クラスで字が書けないのは2,3人で、その中でも鏡面文字になってしまう僕はひらがなひとつ満足に書けなかった。薄墨の上をなぞるときには書けても、その次のマスからは逆になってしまった。鏡文字は小学校3、4年まで続いてしまって、団地に書いた落書きも鏡文字で、ずっとその落書きが残っていたのが恥ずかしかった。

 

クラスの多くは、各家庭や、保育園、幼稚園で文字を覚えていたようだった。僕も保育園に通っていたけれど、ずっと石を並べていたり、宇宙の写真を見ていたので、文字を書いたりすることはしないままだった。家庭では父も母も教えてくれなかった。

 

小学校に入学すると、最初にひらがなを覚えることになる。多くの子どもはすでに書けるようになっている。授業はどんどん進む。スタートラインは一緒ということになっている。実際には、前もってスタートしている人がいるのに、小学校の授業のスタートは一緒、平等にはじまっているからということで、どんどん進んでいく。僕のようなできそこないだけが、どんどん遅れてしまって、小学校1年生で授業が嫌いになっていく。とはいえ、「みんな一緒」なのだ。みんなと一緒に授業を受けていたのに、僕やもう1人2人の子だけが、ついていけなかっただけ、これは個人の問題だし、言ってしまえば、僕とその子たちだけがバカだったということで、平等には反していないということなる。

 

幸いというかなんというか、僕はその後、字が書けるようになった。今でも手書きのときにはたまに鏡面文字になってしまうことがあるけれども、大人になってからは、鏡面文字で点数が引かれることもないし、手書きで書いたものを人に見せることなんて稀だからあまり関係ない。役所に出す書類などは手書きだけれども、気をつけて書いているから鏡面文字になることはあまりない。逆に、鏡面文字は天才みたいなよく分からない迷信を信じている人もいるため、妙に尊重されることもあるくらいだ。ダ・ヴィンチが鏡面文字だったかといって、鏡面文字を書く人すべてがダ・ヴィンチじゃないことは当たり前に分かることなんだけれど、大人になると人とは違うことが褒められるのだから不思議だ。なら、子ども時代でも人とは違うことで褒められたかったと思う。

 

学校の平等はそんな感じだ。極端に言えば、徒競走をするときに、裸足の人とかっこいい運動靴の人がいたとしても、スタートラインが一緒なら、平等ということになる。裸足の人に運動靴を与えることを平等とは思えない。それはそれでエコ贔屓の一種として思われてしまう。あいつだけただで運動靴をもらってずるい!ってなって、運動靴を持ってないと申告する人が増えてしまうような世知辛い世の中しか、想像できなくなってしまったのだろう。

 

僕にしても、その後、クラスにいる知的障害の同級生に対して先生がする配慮をエコ贔屓だと思っていた。平等じゃないと思っていた。なぜ、その子だけ宿題がないのか、と思って、平等じゃないと思ったから、僕も宿題をしなかった。宿題をしなかったのは、うちはとても狭い家だったので宿題をすることが難しかったというのもあるけど、なんか、平等を履き違えていたし、今から思えば、僕のような貧しい家庭の子にも配慮が必要だったのかもしれない。でもそれはそれで、他の子からすれば、なぜ知的障害の子と、貧しい家の子だけが宿題を課せられないのか、平等じゃないという話になっていたかもしれない。

 

つまり、平等とはこういうことで、みんなが一緒のスタートライン、みんなが一緒の条件ということにするということ。それぞれに条件や環境の違いがあるにも関わらず、みんな一緒にするというのが平等というやつの正体だ。

 

これが日本でよくある平等というか、日本の行政などはだいたいこういう平等の考えで動いている。障害児だろうが、多胎児だろうが、多子世帯だろうがなんだろうが、みんな一緒なんで、ということで、同じルールを守るようにと厳しく言ってくる。配慮をしてくれと言っても、「子どもはみんな一緒なので」「みなさんに同じことを求められてしまったら現場はまわりません」とかそんなことを言われてしまう。みんなが運動靴を欲しがったらどうするんですか?と言って、裸足で徒競走に参加させるんだろう。なんだか、ケチくさい平等の考えの中で地方行政は行われているように思う。寛容性ランキングで名古屋という大都市があるにも関わらず、都道府県で14位あたりの愛知県であればなおさらケチくさい考えがはびこる。田舎だと当たり前ですけどね、という人もいるだろう。まあ、田舎なんだと最近は思うようにしている。

 

ではアメリカの平等はどうだろうか。自由と平等の国アメリカでは、自由が銃とか批判とかと結びついていたように、平等というのもきっと日本と違う考えなのではないだろうか。アメリカにも都市部と田舎があるから一概には言えないだろうけど、僕が住んでいたのは、マサチューセッツ州というどちらかといえば、都市とされるところではどうだったのだろうか。

 

ボストンには2年しか住んでいない。その2年の間でも、アメリカと日本の平等の違いというのはなんとなく感じた。そもそも「みんな一緒」ということをアメリカでは言われたことがない。日本だと呆れるくらい言われる「みんな一緒」という呪いの言葉をあまり耳にしないというというか、その言葉はきっともっと別なところで使われているんだろう。それこそ、人種差別とかそういうことに反対するときに「みんな一緒」というのであって、個々の事情で困難を覚えている人に対して「みんな一緒」といって排除するようなことはしないということなんだと思う。

 

平等に困る!<下>(ボストン篇)に続きます。