いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

平等に困る!<上>(ボストン篇)<自由と平等の国アメリカ!>

「平等と公平の違い」(長女1歳6ヶ月)

 

困ったことがあった。

 

アメリカというと自由と平等というイメージがあった。とはいえ、それは日本でも自由だし、平等じゃないかと言われてしまえば、何もアメリカ特有のことでもない。日本で暮らしていても自由や平等は味わっている。とくに日本よりも個人の自由や平等性が保たれていない国の話などを聞くと、日本は自由で平等だなあとか思ったりもする。

 

僕が日本で思っていた自由というのは、つまり、パスポートが強い国でもある日本ということにも関係していて、多くの国に行けることでもあるし、ヴィザなしで渡航できたりすることだったりする。職業選択の自由などを挙げる人がいるかもしれないけれど、これはたまに疑問に思うこともある。学歴や資格がなければなれない職業もあるのだから、明日から別の職業になりたいと思っても、その入り口にも立たせてもらえないのだから、職業選択の自由というのは、身分制度があった時代とくらべて自由というくらいのことかもしれない。なりたい職業があったとしても、その職業につくための準備期間を過ごせるかどうかというのは別の話になっている。

 

職業選択の自由の不自由さは、アメリカも一緒だろう。僕が住んでいたボストンというエリートが比較的多いとされる地域にいると、エリートも非エリートも、アメリカにそういう格差があることは意識していたし、格差のことを誤魔化すような人はあまりいなかった。日本の場合だと、こういう職業や学歴、経済的な格差の話になるとムキになって否定してくる人がいる。中には、頭の良さは遺伝もあるといって、20世紀に批判された優生学的な見解を悪気なく出している人もいるくらいだ。差別につながる見解だから、まあ、まともな人はというか、それなりの教養のある人は思ったとしても口に出すことはないような考えだと僕はと思うけど、最近、なんだか教養がある人たちまで優生学を平気で出しているような気もするのは、人文的な教養が低迷しているからだろう。

 

自由はなかなか難しい。アメリカの銃問題にしても個人の自由と絡んでいるから、一般的な日本人が思うように、「銃なんて個人で持てなくすればいいのに」というわけにもいかない。抵抗権というものがあるかどうかというのも大きい。抵抗権と自由というのはきっても切り離せない、と自由の国を標榜する人たちは思っている。極端に言ってしまうと、個人にも暴力があるということが自由のひとつということにもなる。自由もたいへんだ。そんな物騒な自由はいやだと、日本的な自由の中で生きてきた僕なんかは思ってしまう。

 

そんな中で、何が自由なのかと分からなくなることがある。いま僕にわかるのは、身分制度がなくなった自由というくらいで、これだって表面的にはなくなったというだけかもしれないし、表面だけでもなくなれば大したものだと思うのかもしれない。身分差別がないだけましというか、あるいは、身分差別や人種差別が行われたときには、それに対して、批判や非難の声を人々や社会が挙げられるようになっている、ということが自由ということだとすると、アメリカの方が、そういう自由を大切にしているような気もした。

 

ボストンでバスに乗ろうとして気がつくのは、バスにもそんなステッカーが貼ってあることだったりした。とある黒人のおばさんが、当時、黒人専用の席に座っていたところ、バスの運転手から白人に席を譲るように言われたけれども、それを拒んで座り続けたという話。もちろん、この黒人専用席や白人専用席があったことも批判され、この法律もなくなるわけだし、そもそもの人種差別は今でも根深いけれども、こういう差別は自由と対立するものだとして、アメリカの社会は差別に抗議する、ということになっている。

 

もちろん、そんな中でも差別的な人はいる。そしてそういう人は批判される。日本の場合は、優生学みたいなことを平気で言っている人がいても、あまり批判されない。どちらかというと、批判したりするとうざがられることがあるくらいだ。もしかしたら銃の自由と似ているのかもしれない。銃とか批判とか、相手を攻撃するのはやめようよ、ってのがあるのかもしれない。やんわりと差別し、排除するというのが日本でのスマートなやり方になっているのだとしたら、それはそれでとても困ったことになる。既得権益を持っている人からすれば、安心して暮らせる社会かもしれないけれど。

 

自由はやっぱり扱いに困る。

 

そしてもうひとつの扱いに困るのは、平等というやつだ。これも自由と関係しているかもしれない、というか、これも身分差別や人種差別と関係しているということなんだと思う。

 

自由と同じように、日本でもまた、平等というのは重要視されている。義務教育にしても、社会参加にしても、平等ということが前提なのだろうし、不平等というのはあまり許されることじゃない。僕が子供の頃だって、小学校の先生たちは「みんな一緒」とよく言っていた。

 

そんな日本の平等に、ずっと違和感があった。

 

平等に困る!<中>(ボストン篇)に続きます。