いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

当事者に困る!(自閉症児篇)<助っ人なのか何なのか、根深い問題を感じたこと>

「市役所と保育園との話し合いに、他の人も来てもらった」

 

困ったことがあった。

 

市役所と保育園との話し合いはやっとスタートラインに立った。しかし、市役所にしても、保育園にしても「障害者差別解消法」についての認識は低く、彼らは彼らで、「なごや子どもの権利条例」に従って保育を行ってきたため、自分たちの対応は正しいと思っている。

 

法律か条例か。一般的には法律を上位におくけれども、ここは名古屋市。一般論や常識などでは天下人は生まれないという自負がある。名古屋市の条例に従っているのであれば、それが一番正しい。とか、そんな嫌味をいいたくなるくらい、話が通じなかったことは、これまで書いてきた。僕は話が通じない人とか変な論理で考える人とかは好きな方だったから、子供や家族のことがなければ名古屋が好きだったかもしれない。名古屋生まれだったり、一人者だったら名古屋はそこそこわがままに好き勝手できていい場所かもしれない。

 

今回、やっと話し合いができるようになったと僕が判断したのは、内閣府や、厚生労働省からも障害者差別解消法について名古屋市役所に説明してもらったり、内閣府厚生労働省の役人からも、僕が求めている合理的配慮は拒絶するような類のものでもなく、常識の範囲内の正当な要求であると認められたというのがあった。つまり、僕は勝ち戦に臨むような状態で話し合いに臨んでいた。

 

「なごや子どもの権利条例」に関しては、それ自体は大事な条例だと思う。ただ気になるのは、この条例の解釈次第で、障害者に対する合理的配慮を拒絶する、という考えを持ってしまう人もいるということだ。もちろん、そんな解釈は普通の人ならしないだろう。簡単に言えば、「すべての子どもは平等に扱われるべきである」と条例にあったとき、障害児への合理的配慮は平等じゃない、特別扱いだとして合理的配慮を拒絶するという判断をしてしまうということは、まあ、普通に考えればしないというか、そんな解釈を聞いたときに、ちょっとびっくりしてしまって、唖然としてしまうだろう。園長の解釈はそんな感じだった。数ヶ月間、僕は園長の考えがまったく分からなかった。

 

子どもの頃、僕が通っていた小学校の同じクラスに知的障害者がいた。彼女は自閉症だったのだろう。僕らは今では言ってはいけないとされる言葉を仲間同士で言って、彼女のことを理解しようとしなかった。僕らは、人間ははみな平等だと、「わざと」信じているふりをしたのだった。そのため、彼女が今考えれば合理的配慮などによって宿題が免除されていたり、学年が下の教材を使っていることに対して、エコ贔屓だと思うようになっていた。そのことを担任の先生に文句を言ったこともあるけれど、当時は障害者差別解消法もなく、合理的配慮などという認識もないことから、担任は、子どもの残酷さを押しとどめることもできず、「ちがうの!」しか言えなかった。

 

僕は今でもこの頃の行いを後悔している。彼女の家に唯一招待されたのが僕だったのに、それなのに、僕はいつも彼女を困らせることばかりしていた。子どもの浅知恵で考えた「平等性」というものでだ。

 

きっと、園長は悪気もないのだろう。悪気もなく、小学校の僕が悪気を持って考えた「平等」というものを持ち出している。先ほど、NHKで取り上げていたけれども、保育士には保育士法もなく、決まったルールや規則もない、ということを問題視し、そのことが保育園で相次ぐ不祥事をもたらしているというのがあった。不祥事を防止するために、保育士たちが研修に参加するという活動を見て、応援したいと思った。でも、こんな活動は東京でしかやらないだろう。名古屋でやるのは20年後かもしれない。それまでは、「子どもの権利条例」で障害児は平等性の中で苦しみ続けるのかもしれない。

 

保育士の立場や待遇が改善されることは僕も望んでいるし、必要なことだと思う。しかしそれは、保育園、保育士もルールを守ることで得られるものだと思う。保育士の待遇改善を保護者に何かを負担させることで行うというのは根本的に違っている気がする。好き勝手にやっている保育園の不祥事があるというのは、好き勝手にできる状態になっているということだ。待遇や環境改善と同じようにきちんとした全国的なルールも求められているのだろう。

 

市役所と保育園との話し合いは、「子どもの権利条例」に則っていたとしても、「障害者差別解消法」には違反している可能性があるということを、市役所と保育園に認識してもらうことが根本的な解決になると思っていた。その後で、具体的な合理的配慮を検討するという流れが今後のためにもいい。ちなみに、その頃にはいくつかの合理的配慮はなされており、実際にはそこまで困らなくなっていた。20日に1回しか書かれない連絡帳(この保育園独自のルール)を補足するチェックシートが頑なに拒絶されていた。保育士の仕事が増えるからだと思う。

 

市役所と保育園が「障害者差別解消法」に違反している可能性を指摘することは、僕だけではダメだったし、内閣府厚生労働省も説明することしかできなかった。市役所、保育園の園長と担任に、法律違反の可能性を認識してもらうには、専門家を招聘しなければならなかった。

 

僕は保護者が集まる会にも相談していた。そこの理事の紹介で、子どもの発達、教育の専門家を、この話し合いの場に呼んでいただくことになった。また僕が希望したわけでもないけれども、障害児に対する活動をされている方も当事者として二人ほど話し合いに参加することになった。

 

この話し合いがカオスになった。

 

僕の応援に来たはずの当事者の方たちの攻撃対象に僕がなってしまった。彼女たちの言い分はこうだった。

 

「障害者解消法なんてものがあるからいいけど、私たちのときにはなかった」

 

「軽度知的障害よりも大変な障害児はたくさんいる」

 

「役所や保育園との約束をなんでも書面で求めるのはおかしい。口約束で十分、ルールをも求めるな」

 

と、そんな感じだった。僕は僕ですっかり頭にきた。この人たちはなんなんだろうか。彼女たちも障害児を育ててきて苦労してきたのは分かるし、きっと、彼女たちに比べれば、僕の苦労なんて大したことないのだろうし、長女の障害も軽度なのだろう。しかし、これは一体どういうことなのだろうか?

 

僕が保育園にいろいろ求めすぎることに対して、彼女たちは不満があったそうだ。そして、僕が例として出した東京の保育園での各ルールの明文化と合理的配慮が気に食わなかったそうだ。「資料を見せろ」とか「東京は東京」みたいに、彼女たちに詰め寄られてしまった。

 

ふと思った。彼女たちがこんなにも怒ってしまったのは、彼女たちがこれまで活動してきたことが何にもなっていないと僕が言っていると思ったからなのではないか、と。

 

僕はいろんな仕事をしてきた。いろんな職場で働いた。多くの職場でこういうことってよくあることだ。これまでの自分たちのやり方が否定されたということが、自分が否定されているように感じてしまうということはよくあることだ。

 

ただ、どんなところでも、状況が変わっているのだから、彼女たちのこれまでの活動が何もなっていないということでもないし、彼女たちだけでなく、全国にいる障害児の保護者や障害児が頑張ったから「障害者差別解消法」ができたというのはあるだろう。そして、その法律ができても、浸透していなかったりする場所では問題は起こっているというだけのだ。

 

僕は話し合いの場で、彼女たちのこれまでの活動に敬意を示す言葉を発した。そうでもしないと話し合いは変な方向にいってしまう。すると、彼女たちは、障害者差別解消法だけじゃなく、他のさまざまな権利獲得についても「自分たちの活動」で行われたと主張しはじめた。全国的な運動でなしえていることだと思ったけれども、彼女たちは彼女たちの独力で成し遂げたと思い込まないとやってられなかったのだろう。反論しても碌なことがないので、また感謝をしておいた。

 

そんなことがあって、やっと、専門家が口を開いた。長くなってしまったので顛末はまたにします。当事者たちはややこしい、ややこしくなってしまうくらいに追い詰められてしまったり、そこにアイデンティティを見出したりしてしまったのだろう。社会承認欲求といえば僕が批判的に彼女たちを見ていると思われてしまうかもれないけれど、こういう活動でしか社会承認欲求を満たせないのかもしれない。それはそれでつらいことだろう。