屁理屈に困る!<上>(自閉症児篇)の続きです。
加配制度が明文化されない理由を探ってみた。嘘や誤解や説明不足が生まれるのは、そもそも文章化された制度になっていないことが問題なんだけれども、なぜ、保育園のルールは文章化されないのか。誤魔化しや隠蔽体質は文章化しないところに多く蔓延ることでもある。
困ったことの続きがあった。
嘘を釈明するときに、いつでも言い換えられるのが、「誤解」や「説明不足」であることは、社会に出ている人であれば知っている。トラブルを円滑に済ませるためには、「嘘」よりも、「誤解」にしたくなるものだ。
僕としても長女がこれからも通う保育園というのもあって、波風を立てたいわけじゃないから、「嘘」を「誤解」や「説明不足」と言い換えることを責めるつもりはない。それならそれでいいと思った。もちろん、名古屋市を信用することにはならない。ただ、僕も名古屋市で生活する上で、ましてや障害児の保護者として、長女が笑顔で暮らせるなら、納得いかないことがあっても、うまくやってくれるのであればそれでいいと思ったということだった。
園長との話の中で、今後、「誤解」や「説明不足」が生じないようにするためには、保育園のルールや加配保育の取り組みなどを、文章化して、保育園と保護者両方の合意形成をはかるようにした方がいいのではないか? と提案した。口頭で全て行おうとするから、主任のような「誤解」や「説明不足」が起こるのであって、きちんと文書にしておけば、そのような「誤解」や「説明不足」は起きないのではないか、という提案だった。
そんなに変な提案でもないような気がする。法律が文章になっているのは、「誤解」や「説明不足」を避けるためだと思うし、文章にして困るなどと言うのは、そのルールがおかしいときくらいだろう。その場合は、「誤解」や「説明不足」などではなく、おかしいことを強要していたり、隠蔽していたり、嘘をついていると自ら宣言しているようなものだ。
「文章化はできない」というのが園長の返事だった。
もちろん理由を聞いてみた。
「なぜ、保育園のルールや加配保育の取り組みを文章化し、保護者の理解協力を求めないのですか?」
「文章にしてしまうと困ることがあるんです」
「口頭だと、また誤解や説明不足になってしまうと思うのですが」
「私もそう思いますが、できないんです」
「なぜですか?」
園長は言い淀みながら、自分たちのせいで文章化できないわけではないということを言ってきた。
「うちの保育園には駐車場がないんです。いろいろと交渉して2台分まで借りることができたのですが、2台じゃ足りないんです」
「それは知っていますけど」と言いながら、嫌な予感がした。保育園の近くの道路には、送迎時に多くの車が、いわゆる無断駐車、違法駐車状態になっているのを知っているからだ。
「保育園のルールを文章化してしまうと、送迎時に道路に駐車していることも書かないといけなくなっちゃうんです。保育園としては仕方ないこととして黙認している状態でして、駐車に関しては、ずっと近隣住民さんとも揉めているんです」
僕も近隣住民だ。たしかに、保育園の近くの道路に何台も違法駐車がされていると、視野が悪くもなるから、子供を連れているときには危ないと思ったこともある。僕の場合は、保育園で一緒の保護者たちの車ということもあるから、苦情などをしようと思ったことはないけど、関係ない人からしたら迷惑駐車でしかないだろう。法律を違反しているのは、駐車している方でもある。
「道路の駐車のことがあるから、他のことも文章にできないという理屈なんですか?」
「そうなんです。みなさん、駐車ができなくなると困ってしまうので」
なんだろう、この論理は。屁理屈が好きな僕は人に屁理屈だと言って非難するのが嫌いだけれども、これはちょっとどうかと思ってしまった。こんな屁理屈がまかり通るものだろうか。
「それはそれという感じでやればいいじゃないですか。駐車に関しては止むを得ないのですから、そこには触れず、他のルールや加配制度については文章化すればいいじゃないですか」
「ルールの明文化を反対する保護者の方も多いので」
そんな人いる? と思ったけど、きっと、反対する保護者は駐車している保護者たちなのだろうと思った。実際、車を停めている保護者と話をしていると、この保育園のこういう緩さに助けられているということだった。
駐車を黙認することは、たしかに良いことじゃない。しかし、困っている人を助けていることにもなっている。駐車によって困る人もいるかもしれないが、一日中停めているわけじゃないし、一応、範囲を決めてはいる。それなりに近隣住民とも話し合って、道路交通法違反の状態なのだから、文章化はできないまでも、互いに合意形成をしようとしている。将来的には駐車場を獲得しようと市役所に嘆願しているのも知っているし、その嘆願に近隣住民で車を使わない僕も著名している。つまり、これはそういうことだ。それはそれだ。
「駐車の件は、それはそれで対処していかないといけないとは思いますが、僕が言っているのは、加配制度などのルールも人によって説明が違うことが問題なので、これを文章化して欲しいということなんですよね」
「市役所と相談してみます」
市役所との相談は時間がかかるし、隠蔽体質でよく問題になる名古屋市役所のことだから、文章化することはないのだろう。それに、駐車問題で困っている保護者は多いけれど、加配で困っている保護者はごく一部だ。きっと何もしないだろう。でも、変な言い方になるけど、駐車は本来法律違反であるのをどうにか誤魔化して融通している問題だ。かたや加配制度に関しては法律違反でもなんでもない。法を基にした制度で認められているものだ。なぜ、加配制度の方が誤魔化され、嘘をつかれなきゃならないんだろう。
これは分断統治というやり方かもしれない。保育園側に都合のいいルールを口頭でおしつける代わりに、違法駐車を見逃すということで利便を図る。そのことによって、保育園のルールに困る保護者と、違法駐車する保護者が対立する仕組みだ。違法駐車の保護者は、保育園側に立って、ルールの明文化に反対する。といっても、違法駐車の保護者だってそんなに多いわけじゃない。加配制度だけなら、数は加配児童の保護者の方が圧倒的に少ないかもしれないけど、保育園のルールに困っている保護者でみれば、そこまでじゃない。ただ、保育園のルールに対して、ちょっと困っているだけの保護者であれば、どうでもいいことかもしれない。そういうものだと我慢すればいいと思っている人も多くいる。定型発達や園児1人を預けている保護者でいれば、そこまで困ることもないようなルールだ。そうなると駐車の保護者の方が切実なのだから、切実な保護者ということでは、駐車の保護者の方が圧倒的な数になる。
保育園の誤魔化しで利益を得ているという言い方はきついかもだけど、そんな保護者も一定数いる。そのため、保育園とその利用者の間ではある種の不正に対する誤魔化しも横行している。そして、この誤魔化しは、駐車だけじゃなかった。そのことはまた今度書くことにします。