いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

ウォシュレットに困る!(ボストン篇)<日本文化を宣伝したくなったこと>

「日本を思い出すのはウォシュレット」(長女2歳1ヶ月)

 

困ったことがあった。

 

ボストンに住んで良かったこともあれば困ったこともある。英語がそんなにできないということもあって、契約などで困ることはだいたい英語のことだったけれど、日常会話くらいの英語ではそんなに困らなかったから、英語がそんなに得意じゃなくても日々生きることはそんなに困らないのがアメリカだ。

 

アメリカでは、英語が苦手な人にも慣れている人が多い。バーっと英語で捲し立ててくる人もいるけれど、こちらがポツリポツリと英語を話していると、苛立ちながらも諦めたのか、じっと聞いていてくれたりする。優しい人はゆっくり話してくれたりもするし、中には、自分だって英語しか話せないんだ、とか言う人もいる。

 

海外生活で困るのは、言葉ばかりというわけでもない。言葉ができれば活動の幅は広がるし、実際、なんだか分からないような胡散臭い人でも、英語ができるというだけで、いろいろな場所に顔を出していっちょがみしながら生きているのだから、たくましく生きるためには言葉ができた方がいいのかもしれない。

 

でも僕は、生活に困っているわけでもなかったし、半ば詐欺師みたいな真似をしなければならないほど追い詰められてもいなかった。ただ毎日、育児と家事をして、本を読んだり散歩をしたりで、贅沢はできなかったけれど、齷齪せずに生きられた。

 

そんな僕でも毎日の暮らしに不便と言いますか、そのなんというか、あれがないのがつらかった。

 

そう、日本人と言えばウォシュレット。

 

妻はウォシュレットがないと生きていけないと思い込んでいるのか、電動式の携帯ウォシュレットを持っていた。電池の替え方が分からないみたいで、僕が電池を交換していた。

 

日本から電動ウォシュレットを持っていく妻の姿を僕はニヤニヤしながら見ていた。

 

「マッチョにウォシュレットなど不要さ。たまにアレがついているくらいが男らしいってやつさ」

 

と、有害な男らしさを誇示したわけじゃないけど、ウォシュレットがないくらいなんともないと思っていた。職場などではウォシュレットはおろか和式だったりしたこともあるし、トイレなんて、用を足せればいい、そんなふうに思ってしまった。

 

最初の頃はなんともなかった。

 

ボストンに来て一年近く経ってから、無性にウォシュレットに憧れた。アメリカでもウォシュレットの工事ができるとか、マドンナがウォシュレットを日本で買ったとかそんなことをネット記事で読んでいた。

 

職場にウォシュレットがないくらいなんでもない。どちらかというと、不特定多数が使うウォシュレットは使いたくないと潔癖な感じで思ってしまうから、僕の男らしさなんてハリボテだ。職場の便座だって座りたくない。誰かの温もりがいやだ。男は和式だ、と偉そうに言っていたのは、結局、潔癖じみたところがあるだけで、皮膚が触れることがない和式を使っていただけだった。

 

自宅ではウォシュレットがいい。そう思うようになっていった。ウォシュレットは用を足す以上のものであって、癒しの一種だったことに気がついた。

 

ボストンの部屋にウォシュレットを導入しようとすると、電気工事やら何やらが大変らしい。工事のトラブルも多く、水漏れや漏電などの危険もある。水漏れをさせたら損害賠償請求されることもあるらしい。

 

怖くて諦めた。アメリカのおっちゃんのざっくばらんな工事に、丁寧な仕事をもとめちゃいけない気がする。

 

仕事の関係で、ニューヨークに行った。

 

ニューヨークで滞在したのはエアビだし、普通のアパートだからウォシュレットはない。ニューヨークで人と会うことになっていた。

 

日本文化センターというと何だか通販みたいだけれども、ニューヨークにある日本の文化を発信するところ。そこに友人がいるということで訪ねてみた。そこでは日本語学校もやっているみたいだった。友人を待つ間、ベンチに腰をかけていた。

 

日本語のクラスが終わって、生徒と先生の日本人が出てきた。こなれた感じの日本人の先生には、僕がどこから紛れた怪しげな日本人に見えたのだろう。不審者だと思っていると思われないように不審者に声をかける感じで、僕に声を掛けてきた。

 

「あれ? 久しぶりでしたっけ?」

 

こんな感じだった。もちろん知り合いじゃない。彼女の声がけには二つの意味がある。僕という怪しげな人間がもしなんらかの関係者であれば、人違いをしたおっちょこちょいキャラでいけるし、ニューヨークの日本人なんてたくさんいるんだから人違いもするし、それだけ顔が広いということも示している。もう一つは、僕が何者かであることをそれとなく誰何できる。ジロジロ見ていたらどんなトラブルに巻き込まれるか分からないのだから、先手必勝だ。都会的なやり方かもしれない。

 

「いえ、今日初めてきました。友人との待ち合わせで、ボストンから来たんです」

 

「ボストンから来たんですか、私も知り合いが住んでる」

 

といって、ボストンで日本人のお金持ちがよく住む地名を出してきた。これは、僕が裕福な日本人かどうかを探っているのだろう。

 

「あそこは医者ばかりですもんね。お知り合いはお医者さんですか?」

 

「そう。ボストンはいいところね。アメリカには何しにいらしているんですか?」

 

「妻の仕事で来ているんです。僕は主夫です」

 

「またまたー、こちらのご友人のお名前は?」

 

と、流れるように誰何をされた。友人の名前を出しても伝わらなかったけれど、なんとなく不審者ではないと思ってもらえたようだ。

 

「トイレはどちらにあります?」

 

「下の階にありますよ」

 

日本語教師とさよならして、お腹が痛くなっていた僕は下の階のトイレにいった。

 

そこのトイレの一つが、ウォシュレットだった。僕の友人とは、ウォシュレットだったのかもしれない!

 

感動した。久しぶりのウォシュレットに日本の文化を感じた。日本文化センターはこうして日本文化を発信している。日本文化とか芸術とかのことはよく分からないけれど、ウォシュレットのすごさは分かる。こいつぁすげえ代物だぜ、と英語で宣伝したくなる。マディソンスクエアガーデンでウォシュレットのパフォーマンスがしたくなる。

 

ウォシュレットを堪能して、またベンチに戻ると友人がいた。久しぶりに会った友人なのに、僕はウォシュレットの話ばかりしてしまった。次の日もウォシュレットを使用するために訪れることを友人に約束した。帰り際に友人が妙な笑顔だったのを思い出した。