いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

過保護に困る!(自閉症児篇)<妻はJICAの人の話を思い出した>

過保護に困る!(自閉症児篇)

 

「長女のためなら、大袈裟にもなるし、過保護にもなる、なんでもやる」(長女3歳10ヶ月)

 

困ったことがあった。

 

僕はきっと、大袈裟で、過保護で、やりすぎなタイプの保護者だろう。そんなことないよと思ってくれる人もいるかもしれないけど、そう思う人も多くいるだろう。

 

僕も、人のことを大袈裟だなとか過保護だなとかやりすぎだな、と思うこともある。口や態度に出すかと言われたら、だいたい出さない。心の中で少し思うくらいだ。

 

大袈裟な人にも理由がある。自分の困りごとを誰にも聞いてもらえなかったりすると、大袈裟な表現になってしまうこともある。一種の相手にされなさが大袈裟を生んでいる。アメリカだと、ドラマティックウーマンという表現がある。大袈裟な人のことだったりする。大袈裟というのはそれだけで、ちょっと批判的に扱われてしまう。

 

大袈裟であると否定する前に、どんなことで大袈裟なのかの方が大事なことだ。些細なことで大袈裟になってしまうことも人にはあるけど、誰が見てもそりゃ大変だということで大袈裟になっていることもある。オオカミ少年じゃないけど、普段から大袈裟にしていると、いざ大変だというときにも、こいつはいつも大袈裟だという思い込みで処理されてしまうこともある。

 

今回、長女のことで僕は大袈裟だと思われたり、大変だと思われたりした。大袈裟だと思う人は、きっと普段から僕が大袈裟な人間だと思っているのか、僕がどうこうではなく、「人生には大袈裟になることなど一つもない。花に嵐の例えもあるさ、さよならだけが人生だ」とか思っている人かもしれない。達観風にしたいならそれでもいいけど、それはそれで、「こいつはいつも他人事は達観したようにしているけど、フラれたときに大袈裟に泣き喚いて、死んでやる! とか言っていた黒歴史があることを忘れて達観風にしてるなあ」とか相手も思うわけだから、何がなんだか分からない。

 

事情もあまり言っていないのに、「そりゃ大事だ」と思って相談に乗ってくれた友人もいる。そんな友人からすれば、僕がこんなにもムキになって、大袈裟に騒いでいるのが珍しいと思ったというのがある。

 

普段、ちょっとしたことで困っている僕だけれども、困ったとか言っているのは心の中で困っている感じで、ブログを書いてみて、こんなにいつも困っていたんだなあと自分でも思わされているくらい、普段は困った感じを出していない。どうとでもなるさ、と思って生きている。

 

しかし、長女のことはとても困ってしまった。困った、困ったと、会う人会う人に愚痴っていた。

 

長女は障害者だ。本人の力で解決できることもあるけれど、本人の力じゃどうにもならないこともある。とくに発語できなかった頃は、何をどうしたいのかも分からなくて、周囲も本人も困っていた。

 

長女が玄関で泣きながらおしっこを漏らしていた。僕は長女を抱きしめて、この子のためなら大騒ぎしてやろうと誓った。僕も泣いた。僕のズボンが長女のおしっこで濡れた感触は今も忘れていない。

 

大袈裟にもなろう。過保護にもなろう。やりすぎてもいい。誰にどう思われようが構うものか。

 

長女の笑顔は、これは親バカと言われるものだけど、とびっきり可愛い。この笑顔を僕は守りたいと思った。長女のためなら、法律違反と言われてもいいくらいは思った。

 

しかし、法律はもうちょっと障害者に配慮していて、長女を泣かせる方が法律を違反していることが多い。そうなると、僕は法律の遵法者みたいになればいいじゃないか。

 

法律なんだから、大騒ぎせず、大袈裟にならず、過保護とかでもなく、やりすぎることもなく、ただ、法律を出せばことは済むようにも思える。しずかに、法律違反を指摘すれば済む話しだ。

 

そんな社会だったら、もっと楽だったろう。

 

法律違反を指摘すると、法律を出すだけで、大袈裟だと思われる風潮がある。不思議だ。

 

法令違反を指摘しているだけなのに、大袈裟で過保護に思われてしまうというのはどういうことなのだろうか。この謎が僕にはまだ解けない。長女のような障害児だけでなく、幼児や園児は法律で守れていることが多い。なのに、法律を出すと相手はドン引きだ。困っている子供を助けるための法律なのに、法律違反をしている方が普通みたいな扱いになる。

 

これはどういうことなのだろうか?

 

僕がいるのは、法治国家ではないのかもしれない。馴れ合いと既得権益同調圧力で構成された無法地帯だと思うようにした。無法者たちから、大袈裟だと思われ、過保護だと思われる感じ。なんだか、そんな小説や漫画を読んだ気がする。法律を守ろうとした人が村の掟や慣習に反してしまうような、そんな話。

 

名古屋は大きな村だという人がいるが、きっとそういうところが村と呼ばれる場所なのだろう。知り合いのJICA職員の話を思い出したと妻が言っていた。