いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

社会福祉協議会に困る!(自閉症児篇)<困っている保護者を疑う人たち>

社会福祉協議会も地域差、担当差がある」(長女3歳9ヶ月)

 

困ったことがあった。

 

長女が通う保育園は合理的配慮をするつもりがない保育園だった。その理由は、「子供はみんな一緒」ということで、どんな子供も特別扱いはしない、という平等精神に基づくものだった。

 

保育園に関する法律がいくつかある。そのうちの一つに、相手の家庭の社会的身分などによって対応を変えるなどはしてはならないみたいなのがある。平等性を重んじる法律だ。

 

この法律は素晴らしいと思う。社会的弱者への差別的な対応もそうだけれども、地元の名士や地主、著名人などに対して優遇するような時代錯誤なことはしてはならない、というようなことだろう。それはそうだと思う。この法律に文句はない。

 

しかし、これまた難しいもので、特別扱いと合理的配慮の区別がつかない人というのが一定数いる。優しい感じで例えると、ちょっと大人になりきれないピーターパンな人のこと。保育園側でもそうだし、保護者の方にも思慮が浅い人という者がいるくらいは、浮世離れしがちな僕でも分かる。

 

思い出してみると、僕が小学生の頃に、同じクラスに知的障害者がいた。小学校5年生のときに、彼女は小学校2年生用のドリルをやっていた。僕は宿題が嫌だったというか、とても狭い家に住んでいたので宿題ができる環境じゃないというのもあって、宿題ができなかった。そんなことから鬱屈した気持ちになってしまって、知的障害者がエコ贔屓されているような気持ちにもなった。思い出しても恥ずかしい了見だ。平等の刃を振り回すことに躊躇いがなかった。

 

「なんであいつは小学校2年のドリルなんですか。僕も同じにして欲しい」

 

そんなことを教師に言った。教師からはただ叱られただけで、なんの説明もなかった。そのとき、彼女のことを障害者だと説明することがよくないことだったのだろうか。彼女のことを障害者と生徒たちにも認識させて、障害者に対する配慮をすることが社会的な行為であることだと教える必要があったのではないだろうか。

 

自己責任という考え方を僕は嫌う。嫌うけれども、あえて使うと、障害者は自己責任じゃない。彼女が悪いことをしたわけでもない。当然な報いを受けるべき存在でもない。であれば、彼女を取り巻く環境は、彼女の知的障害に対して見てみないフリをするのではなく、彼女に対して合理的配慮をすることが大事なことであると教えることはできただろう。しかし、そのときの担任教師には荷が重い問題だったと思う。まだ障害者差別解消法もない時代だった。

 

いまは障害者差別解消法があって、合理的配慮はしかるべき権利として認められている。この法律に関しては、障害児を育てて3年すぎた僕も知らなかった。障害児育児のうち2年がアメリカだったというのもあるし、アメリカでは合理的配慮が当たり前というのもあって、それも、僕らがソーシャルセキュリティーナンバーを持っていたからかもしれないし、妻の職場の良い保険に入れていたからかもしれないけれども、少なくとも僕らにとって、社会的障壁と感じる前に合理的配慮がなされていた。

 

帰国してからも、困ったことがあれば、保育園や役所、あるいは社会福祉協議会に相談すれば、すぐに解決した。東京郊外のとある地域ではそうだった。

 

東京の社会福祉協議会は頼もしいところで、園長先生が変なことを言ってきたときにも腑に落ちなかったので、社会福祉協議会に連絡すると、「それは園長がおかしい。私から役所に連絡し、役所から園に事実確認と指導をするように言います」とスイスイとことが運んだ。「役所から園長に確認したところ、言葉のアヤみたいな言い訳をしていたようです。誤解を招くようなこと保護者に言わないように念をおしといたということでした」という連絡もあった。社会福祉協議会も役所も、保育園の言い訳などを熟知しているのか、保護者を疑うよりも、園長の発言や言い訳を指導した。

 

理性的に考えれば、保護者を疑う方が馬鹿げているのが分かる。保護者が社会福祉協議会や役所に相談をするのは、保育園から言われたことなどで困っているというのがある。自分が困るような嘘を保護者が言うわけない。もしそんな嘘を保護者がついていたら、それはそれで何かの病の人かもしれないから、それはそれで別に対処する必要があるだろう。

 

自分が困るようなことを保護者が言うわけない。考えなくても分かることでもある。しかし、モンペという存在が宣伝されてからは保護者の言い分を過剰に疑って組織防衛をする地域というのもある。自浄作用がない地域は特にそうなっていると思う。隠蔽体質が全国的にも有名になった名古屋市であれば、身内を庇うことばかりだ。

 

数ヶ月前、いじめ問題も隠蔽ばかりだったために、第三者機関すらそれを監視する機関が必要だといじめ被害者の家族が訴えていたのは印象的だった。

 

保護者が困っているのは、保育園から言われたことで困っている。それが入園のしおりにも記載のないことや、重要事項説明書にも書いてないこと、法律違反が疑われるような対応を保育園がしてきたと、保護者が相談してきたら、まずは保護者の言い分が一般的に、法的に正当な異議申し立てであるかを検討し、正当であると判断したら、その言い分を助けて、役所なり園なりへ橋渡しをする。それが社会福祉協議会だと、東京では思わされた。障害児を育てているととても頼もしい存在だった。

 

しかし、名古屋のある地域の社会福祉協議会はそんな頼もしいところではなかった。障害児への配慮と加配などに対する園の対応と園長の言い分を電話で相談し、メールでも文章を添付した。園長との話し合いは不調に終わったことは何度も言った。対応までに2週間くれということだった。なんで2週間もかかるのか分からない。2週間、長女はおしっこを我慢し、お漏らしをしつづけた。園に忘れ物を届けにいくと、長女一人だけ別のクラスにいることもあった。

 

社会福祉協議会からのお返事は「園長と話し合いをしましょう。協議会が言えるのはそれだけです」というお返事だった。

 

社会福祉協議会は法律のこともよく分からないし、どっちが正しいとかも言えないし、役所に相談することもできないということだった。

 

名古屋市のとある地域の社会福祉協議会が何のためにあるのか、僕にはさっぱり分からなくなった。ただ時間を経過させて、保護者のヒートアップした頭を冷ますために時間稼ぎをしている機関だと思った。つまり、僕はモンペ扱いされているわけで、時間が解決すると思われていたということだ。

 

僕はよりヒートアップした。次は役所に連絡することにした。長女の泣く姿が何度もフラッシュバックしたし、長女は保育園に行きたくないのか登園時に玄関で毎日泣いていた。