「ボストン2年目はケープコッドに行った」(長女1歳9ヶ月)
困ったことがあった。
僕は旅行があまり好きじゃない。いつもと違うということが苦手だし、旅先では眠れない。枕が変わると眠れないというやつだ。だからできることなら旅行には行きたくない。とか言いながらも、せっかくアメリカに2年もいるのだからとか考えた。それまで一度も来たことがなかったアメリカ、大学生あたりがアメリカに短期留学かなんかして「やっぱりアメリカは大きいよ」とは知った顔しちゃうようなアメリカ、インドに行ったら人生変わっちゃうように、アメリカに行くと視野が広くなるらしい。皮肉な見方をすれば、アメリカに行かなくても視野が広い人はいるし、インドに行っても普通に帰ってくる人もいるだろう。
こんなひねくれたことを言うのも僕が旅行嫌いだからだ。
旅に行ってその人が変わらないのは、自分を持って旅をしたからだ、みたいなことをモンテーニョあたりが書いていた。当時の旅は今の旅とは違うだろう。移動方法から宿泊にしても、入ってくる情報もいまとは全く違う。自分を持つというのはスマホを持っていたり、クレジットカードを持っているということだとしたら、スマホもなく、クレジットカードもなく、もしかしたらパスポートも持たずに海外を旅したら、それはもう、人生が変わるだろう。
アメリカにいる間に、3回ほどボストンを離れた。2年間で3回。きっと少ない方だと思う。2年目の半ばからは妻が双子を妊娠したので、予定していたラスベガス旅行に行けなかった。ベガスに一度行ってみたかった。なんで行きたかったのか思い出せない。
最初に行ったのはフィラデルフィア、最後に行ったのはニューヨーク。どちらも旅行というよりも、妻の仕事と僕の仕事の関係で行った。レジャー先に選んだのは、ボストンやニューヨークに住む人たちがよく行くと言われるケープコッドだった。
ケープコッドは観光地、リゾート地として知られている。歴史を遡ると、ネイティブアメリカンから、フライパンや鍋と物々交換して手に入れた場所らしい。こんな取引いまじゃ許されないだろう。アメリカはそんな場所ばかりでたまに気が滅入る。
現在のケープコッドは夏になると盛り上がる。僕らが行ったのは、ケープコッドのプロビンスタウンと呼ばれているところで、セクシャルマイノリティーの聖地のような場所らしい。行くまでは、というか、道中のフェリーに乗るまでは知らなかった。
考えてみれば、リゾート地という場所に行ったことがなかった。避けていたのかもしれない。
妻と長女と、ボストンで知り合った友人夫婦とはじめてのリゾート。いつもなら旅先でげんなりする僕だけれども、プロビンスタウンでは始終浮かれた気分になっていた。海と空が気持ちいい。ホテルから少し歩けば砂浜だ。僕は海には入らないし、砂浜の砂が靴の中に入るのが嫌だから、できるだけ遠くで、妻と子供が遊んでいるのを見ていただけなんだけれど。
食べ物も美味しかった。ロブスターはボストンの名物のような感じなのは、ケープコッドといえばロブスターだからかもしれない。ロブスターロールや蒸したロブスターを丸々食べたりした。値段はそこそこするけれども、リゾート地ではケチってはいけないような気がしてケチらずに食べた。チップも少し多めに払った。リゾート地で働く人たちは短期決戦だ。夏の間に稼がないと大変だ。シーズンが終わればきっとケープコッドは寂しくなるだろう。
長女はホテルのプールが気に入っているようだった。といっても、まだ発語もなかったので、楽しそうという表情を勝手に読み取っていただけ。
長女は1歳くらいのときに人に勧められてプールに行ったことがある。楽しかったのかなんだかわからなかった。剽軽な黒人の先生がいて、プールの中から、バーっと現れるアクションをしてくれたけれども、あまりにも動きが大きくて大人の僕でもちょっと怖いくらいだった。長女は泣きながら僕にしがみついてきた。
長女のプールはそれ以来だった。妻にしがみつきながら浮いている。それだけだ。
ケープコッドあるいはプロヴィンスタウンらしいお土産を買おうと思った。だいたいロブスターがらみだ。
気になるお店があった。僕にとってプロヴィンスタウンはロブスターというよりもセクシャルマイノリティの街という印象だったというのもあって、トランスジェンダーの友人への土産話を作ってみようと、ドリアンボーイという名前のお土産屋さんに入ってみた。もちろん、この街でドリアンといえば、オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』のことだろう。食べ物の方じゃない。
中に入るとおしゃれなジャケットやシャツがぶら下がっていた。店主に声をかけられた。
「どんなの探しているの?」
「ケープコッドらしい感じのシャツが欲しい」
「じゃあ、これにするといいよ」
と、花柄で袖をまくるとロブスターのプリントがあるシャツを薦められた。サイズは店主が見立ててくれたので、試着してみるとピチピチだった。
「ちょっとタイトかもしれない」
「ジャストだよ」
郷に入りては郷に従えということで、僕にはタイトだけれども、店主にはジャストなサイズで買うことにした。会計をしていると、店主がニコニコとしていた。
「君は日本人だよね?」
「そうですよ」
「僕は昔、日本人の恋人がいて、今でも思い出すんだよ」
「日本には行きましたか?」
「2回くらい行ったよ、また行きたいねえ」
その後、ハグをして店を出た。
外で待っていた妻に、店主にハグされた話をした。店主が男性で良かったとか、何が良かったのか詮索すると面倒なことになりそうな気がしたので笑っておいた。