「赤子を抱いて湯船につかる」(長女3ヶ月)
困ったことがあった。
ベビーバスを持ち上げて腰を痛めてから、長女を抱っこしたまま座ったり立ったりすることにも気をつけていた。ぎっくり腰は重い物を持ち上げたときになりやすいけど、軽い物でもなるときはなる。整形外科でレントゲンを撮ってもらうと、骨とかヘルニアではないというのが分かった。
人によって腰痛の緩和の仕方は違うから腰痛持ちの人にどういう姿勢のときになったのかとか、どうやって緩和させているのか聞いても同じだなあということもあまりない。重い物を持ったときというのはよくある話ってくらいかもしれない。
ベビーバスはさすがに重すぎた。重いだけじゃなくて腰に痛みを感じたにもかかわらず、水をぶちまけないように慎重に運んでしまったから余計に腰に負担がかかった。何度でも言いますと、年齢もある程度になってきたら、普段から鍛えているという人はあれですが、そうじゃない人はできなくなっていることがあるというのを自覚した方がいいということ。
長女もベビーバスの時期を卒業してきた。ベビーバスはレンタルで借りていたと思う。ある時期からベビーバスを見なくなったのは、レンタルに引き取ってもらったのかどうかすら、乳児から3ヶ月までの期間のボロボロの状態の記憶はおぼろだ。
赤ちゃんをお風呂に入れるということに幸せを感じる人がいるらしい。きっと、そういう人は普段からお風呂に入ることに幸せを感じているんじゃないかとも思う。赤ちゃんを抱く幸せと湯船に浸かる幸せの相乗効果を味わっているから、とても幸せな行為なんだろう。
僕の場合は、お風呂に入ることも湯船に浸かることもそんなに幸せを感じていなかった。仕方なく風呂に入るだけだし、湯船に入っているとぼんやりしてきてしまうので少しつらいくらいだ。そして新生児のときからずっと泣き続けている長女を抱っこするというのは、幸せを通り越していつものことだし、つらいと思うこともたびたびあった。
赤ちゃんとお風呂に入る人が幸せの相乗効果で成り立っているという僕の幸せ方程式から考えれば、僕の場合は、つらさの相乗効果になるんじゃないかとも思える。そして、そこには腰痛の心配もあるから、滑りやすい浴室にツルツル滑る赤子の肌も相まって、足腰に注意を払わなければならない赤ちゃんとのお風呂は、つらさと心配の混合物で、もう逃げたくなるものに思えるだろう。
しかし、実際に、赤ちゃんと一緒に湯船に浸かってみると、やっぱり幸せだった。首周りの垢を見ては、妻には任せておけん! みたいな気持ちにもなったりして、妙な責任感と至福を感じたものだった。このままずっと湯船にいたい、そんなことを思ったのは人生ではじめてかもしれない。
長女の体も洗い終わり、そろそろ湯船から長女を出さなければと思った。つかまるところもないため、抱っこをしながら足をうまいこと入れ替えて、あがろうとする。水の抵抗力を感じた。
やばい、腰をやる。
妻は脱衣所でスタンバイしていた。助けを求めて長女を引き取ってもらった。幸せの中ですっかり油断してしまった。
妻にすぐ引き取ってもらえたのと、腰痛の記憶も新しかったので、腰を労わりながら湯船から出た。湯船には魔物が住んでいる。いま腰をやるわけにはいかない。2ヶ月もすれば渡米しなければならない。湯船の幸せなぞ、本来、僕には無縁だったじゃないか、と寂しく思って、それ以来、娘と湯船に入ることはなくなってしまった。
妻の不在などで僕が娘たちをお風呂に入れるのは基本的にシャワーになる。みんな僕のシャワーが嫌いだ。
長女が妻とのお風呂に入りたがらないときに、僕は「お父さんとお風呂にするか?」というと、テキパキと長女はお風呂に入りにいく。僕のお風呂のお誘いは恫喝や脅迫の類になってしまっている。風呂を恨むのもおかしいが、なんだか僕と風呂の関係はなかなかうまくいかない。最近はこっそり1人で湯船に浸かってみることもある。湯船とは徐々に関係を修繕しているところだ。
もう娘は僕とお風呂に入らない。思い出してみると、生後3ヶ月程度の娘と湯船に浸かったあの日がとても懐かしい。アメリカの湯船は一緒に入ったけれど、幸せは得られなかった。湯船の浅い浴槽では湯船に浸かったという感じがしないのだろう。