いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

定型句に困る!(自閉症児篇)<非定型発達は個性の問題じゃないと思う>

「テンプレな会話はときに残酷だ」(長女1歳3ヶ月)

 

困ったことがあった。

 

長女の発達の遅れに気がついて、アメリカ人の友人に相談するとアーリーインターベーション(早期介入)というのがあるということで利用することにした。

 

アメリカだからなのか、ストンだからなのかは分からないけれど、ボストンでは、発達障害自閉症の診断は1歳6ヶ月になってから診断される。もちろん、それ以前から発達が遅れていると思う場合には、アーリーインターベーションを利用することもできる。入っている保険の範囲内だったからなのか、保険なども関係なく、社会的福祉としてなされているのか忘れてしまったが、無料だった。

 

日本だと、3歳になるまで診断が受けられずに、そのまま定型発達の子供たちと過ごすことになることもある。子供もつらいが、非定型発達の子供を何の支援もなく育てている親の苦労は誰にも分かってもらえない。保健師や保育士に相談しても「様子を見ましょう」と言われるだけだし、周囲に相談しても「うちも一緒」と育児あるあるに回収されてしまう。

 

定型発達の子と非定型発達の子は、1歳を超えたあたりから大きく違っている。あるある体験では共有できない。定型発達で一定の時期に起こることが、非定型発達だと頻繁に、そして長い期間にわたって起こる、これは大きな違いで、「量は質に転化する」という言葉を思い出してしまうくらいだ。あるあるだから大丈夫ということにはならないし、それは気休めではなく、非定型発達の子供と親を孤立させることになってしまう。

 

育児あるあるにしてしまうのは悪気がないことかもしれないけれど、そこには、「大袈裟な親だな」という非難も知ってか知らずか含まれているため、非定型発達の子供の親は傷ついてしまうか、字義通りに信じてしまって、発達支援に参加するタイミングを逸してしまう。

 

育児の相談を聞いたときは真剣に向き合うように僕はしている。ある友人から相談を受けて、非定型発達であることは明らかだったから、療育なども探し、専門家に相談することを強く勧めた。「できるだけ早い方がいい」と僕が言うと、すぐに療育や受診をしたらしい。先日、そのことでとても感謝された。

 

「みんなと違ったっていいじゃん」

 

非定型発達の相談を受けているときに、同席した新米パパの友人の1人がそういった。これも定型句だ。もしかしたら、非定型発達の話が長引いてしまったから、イライラしてそう言ったのかもしれない。この会話に興味が持てないのでやめましょう、という提案なのかもしれない。

 

「みんな違ってみんないい」

 

そんな言葉は居酒屋のトイレとかにぶら下がっているカレンダーに書いてある言葉で、「一歩前へ」みたいなものだ。

 

みんなと違っていることを礼賛する人が一定数いることは知っている。しかし、それは、みんなと違う道を歩んで行く人が自分に向かって言う言葉であれば、「犀の角のように1人で歩め」というように決然としたかっこよさもあるだろう。また、皮肉みたいになるけれど、「みんなと違ったっていい」みたいに言う人の多くは、「みんな」をとても意識している人に多いような気もしている。

 

子供を育てるということは、野生のままにするということではない。その子供が生きる社会の中で、どのような存在になるのかは、「みんな違ってみんないい」というものかもしれないが、発語がないとか延々と泣き止まないとか、睡眠障害があるとかは、社会の中に入って生きていくための障壁になる。それは個性というものではなく障害や症状と言われるものでもあるから、できる限り社会的な障壁を取り除こうとしたり、障害を持ちながらも社会に適合できるようにサポートするのが、社会の役割であるし、子供が触れる最初の社会的人物である親の役割でもある。

 

延々と泣き止まない子や発語がない子を、「みんなと違っていいね!」と思うのは、よほど社会を信頼しているか、子供のことを珍奇な玩具か何かと勘違いしている発言にもなりかねない。

 

もちろん、そういった障害や症状を持つ者が社会と対峙する中で、己の個性として活躍することもあるだろう。そのときはその本人が「みんなと違ってよかった」と言うものであって、本人でもない者が言ってしまったら、相手を怒らせてしまうこともある。

 

発達障害を抱えた子供を育児している親が、心配しすぎに見えたり、大袈裟に見えることはあるかもしれない。発達障害を抱えた子供を育てるときには、そのような社会との関係を見据えてしまうため不安が絶えない。しかし、親だけでできることにも限界がある。社会からの支援は当然必要になるし、周囲の理解もどうしても求めてしまう。

 

「うちの子は他の子と同じようにできない」

 

これは当事者の定型句でもある。何も周囲の子と比べて劣等感があるとか、心配しすぎとかいう問題でもないし、子供の個性を摘もうとしている言葉ではない。保育園なり幼稚園なり、あるいは近所や親戚付き合いでも、子供の社会の中で、誤解や排斥をされてしまうことに対して、周囲への理解を求める定型句でもある。

 

発語ができない子供は他の子から誤解され、保育士などからも放置され泣きながらお漏らしをしてしまったりする。好き嫌いも言えないことから保育園でいやな思いをして帰宅してただ泣いている。親も子供に何があったのか分からないままになる。このようにただ泣いている子供を見ながら、みんなと違って素晴らしいと喜べるだろうか?

 

定型発達でも非定型発達でも育児は常に心配なことがある。そのため「みんな一緒」と考えてしまいがちだけれど、様子の違いなどは見ていれば気が付くものだ。育児でイライラしていたりすると、非定型発達の親が被害者ぶっていているように見えて腹が立ってしまうだろうし、子供の発達以外にも家庭環境や経済状況などの違いから育児の負担は大きく異なる。家庭環境の整備にしても、経済支援にしても、社会が支援し、フォローすべきことだと思う。それぞれがいがみあい、敵対する必要はない。

 

また、子供がいない人や、子供が嫌いな人もいるだろう。僕もそうだった。そういう人には、社会というものの構成要素として子供というものは欠いてはならない存在であることを考えて欲しい。社会なんていらないということで1人山里にでもこもっているのであれば、僕から言うことは何もない。