いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

帰国引越に困る!<中>(ボストン篇)<乳児が2人いる引越>

帰国引越に困る!<上>(ボストン篇)の続きになります。

 

渡米は乳児は1人。これも大変だった。帰国は、乳児2人と幼児が1人。これは大変を超えて、なんだかわからなかった。どこか開き直っていたかもしれない。そんな僕らの帰国引越です。

 

困ったことがあった。

 

ボストンから日本への引っ越しは、日通とヤマトの二つだった。どちらにも見積もりのメールをしてみたけれど、日通からは返事すらなかった。そのため、ヤマト一択になった。そしてこのヤマトさんの対応が素晴らしすぎて、アメリカのいい加減な対応に慣れてきた僕に、ウォシュレット並みの日本文化の快適さを感じさせるものだった。ヤマトさん、すごい、感動しました、みたいな大袈裟なメールを送ってしまった。TOTOを褒め称えるようにヤマトさんを褒め称えていた。物流界のウォシュレットだ、たとえが適切かどうかは分からない。ちなみに、企業さんの多くは日通らしい。僕らのような個人は相手にしてもらえないのだろう。

 

ヤマトの担当さんには、僕らの状況などもお伝えしたところ、どんな感じで引っ越すのがいいかというのを教えてもらったりしていた。あと、双子乳児を抱えての帰国をはげましてもらったりもしていた。あのときの担当者さんは偉大な人だと思う。そしてヤマトさんと契約して、ダンボールが送られてきて、荷物をせっせと毎日梱包していった。ミルクやオムツ、夜泣きやら何やらの合間を塗って引越しの準備をした。1ヶ月くらいかかったかもしれない。なんだかこの辺から記憶がぼんやりとしている。

 

引越し前の数日、今度は旅の準備もしなければならなかった。僕らには頼れる実家があるわけでもないし、転がり込む先もない。それにアメリカではインフルエンザが流行り、日本では新型コロナが騒がれていた頃だ。これはあとで分かるのだけれど、もし僕らの帰国があと数ヶ月後だったら、二週間ほどホテルで待機することになっていた。二週間までいかないけれど、僕らは帰国後二日ほどホテルに宿泊することになっていた。その後の滞在先になる場所の都合もあったけれど、きっと疲れ果てているからホテルでゆっくりしたいというのもあった。何もしない日が欲しかった。まあ、2歳児と乳児2人いるとホテルでもゆっくりはできないが、ゆっくりの一歩手前くらいにはなれる。

 

引越しの当日、ヤマトさんが来て荷物を綺麗に運んでくれた。不用品も同じフロアの人や、管理人さんが引き取ってくれた。さまざまな片付けで遅くなってしまうから、妻は2歳と0歳双子を連れて空港近くのホテルに向かった。これだって大変だ。荷物のほとんどは僕が持っているとはいえ、2人乗りベビーカーと抱っこ紐に自分の荷物を持って移動するのだから、通り過ぎる人たちの注目の的だったらしい。アメリカということもあって、そんな妻を助けてくれる人も多くいたらしい。アメリカのこういうところは大好きだ。

 

僕の方は、片付けやら、鍵の返納やら、あとは大量の荷物やらを持って夕方過ぎにアパートを出られるようになった。ウーバーを頼んで空港近くのホテルに向かった。すでに疲れ果てていた。ウーバーの兄ちゃんから、「旅行に行くのか?」と聞かれたから、「日本に帰国するんだ」と答えたら、「日本はいま大変だろ?」と言われた、その2ヶ月後くらいにはアメリカの方が大変になるとは思わなかった。

 

書きながら思い出したけれど、このときの車窓から見たボストンの街が美しかった。嫌なこともあったし、文化の違いに苛立ったりもしたけれど、僕はボストンが好きなんだと思いながら外を見ていた。「僕はボストンが好きだよ」と言うと、「僕もだ」と兄ちゃんは言っていた。ホテルに着いて、妻と子供たちが待つ部屋に入った。子供たちは寝ていた。妻も疲れ果てた顔をしていた。引越しの最後に挨拶に来た友人からもらったビールを妻と飲んだ。その友人は「僕らも引っ越しが多くて、いつも最後まで大変な思いをしていた。でも、引越しの荷物が片付いて、ホテルで飲んだビールがおいしかったんだ。荷物になって申し訳ないけど、このビールはホテルで飲んでよ」ということだった。

 

おいしいビールだった。そういえば、ボストンはビールもおいしかった。

 

次の日は、僕らの引越しというか帰国のメインの日だった。妻の友人たちが空港に集まってくれて、長女の友達も何人かいた。2年間だけだったけれど、素敵な友人たちに出会えた。妻と妻の友達たちが話している中、僕は子供たちを追いかけ回していた。そして出国準備をした。このときもいろんな人が優しかった。

 

帰国引越に困る!<下>(ボストン篇)に続きます。