いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

取り組みに困る!<2>(自閉症児篇)<感謝の気持ちのハードル>

取り組みに困る!<1>(自閉症児篇)の続きになります。

 

自閉症児や障害児を保育園に預かってもらえている、と思うのはどういうことなんだろうか、僕に感謝の気持ちが足りないのか、僕がただ傲慢なやつなのか、名古屋に来てから悩む日々でした。

 

困ったことがあった。

 

嫌な気持ちになる人もいるのだろうけど、ボストンや東京では、長女のような自閉症児、軽度知的障害児を預けるにあたって、診断も受けて、加配申請もすれば、保育園に入園するには当然のこととして扱われた。違和感のようなものもなかった。当然の権利として、変に感謝することも、へりくだる必要もない。もちろん、障害児に対して熱心に取り組んでいたり、通常の保育ではやらないようなことまでやっていただいたときには、申し訳ないやら感謝やらの気持ちが起こって、「申し訳ありません」とか「お手間をおかけします」とか「とても感謝しています」みたいに言うし、思う。その度に、「そんなに頭を下げないでください」とか「当たり前のことですから」などと言って、保護者の心の負担を軽くしてくれた園長や保育士の方の姿が今でも心に浮かぶ。制度は制度であるけれども、それを動かすのは人間だし、制度以上に子供に向き合ってくださる方に対しての感謝の気持ち忘れてはならないと思う。それはきっと障害児だからというわけでもないだろう。

 

名古屋では、自然と感謝したくなるような気持ちになることがなかった。制度で決まっていることとして受け入れて「もらい」、そして制度で決まっていることですら、最低ラインというか、グレーゾーンで誤魔化され、嘘をつかれたりしていた。感謝の気持ちなんておきない状態の中で、無理矢理、感謝するように求められているような感じだ。

 

20年前に比べればまし、とかそんな理由で感謝しなくちゃいけないと思われている。実際、そんなことを別の当事者からも言われた。

 

名古屋市や保育園との戦いの日々はたくさん書いたので、興味のある方は、この<自閉症児篇>を読んでいただければと思うけれども、そんな周囲の押し付けがましい「感謝せよ」という視線を跳ね返すように、僕は数ヶ月戦った。ちょうど、コロナで準備までしていた仕事がキャンセルになってしまって、役所が空いている時間に電話ができる環境だったというのもある。いつも通りだったら、役所の空いている時間に手が離せないことが多いのだから、そんな時間がないと戦うこともできない。きっと、そういうことも相俟って、障害児を保育園に通わせる人たちは戦えないことが多いんだと思う。コロナだから戦えた。

 

役所からは満足な回答はなかったとはいえ、保育園の対応はかなり改善された。そもそもの問題だった嘘をついて誤魔化した主任がいなくなったし、年度が変わると、役所の課長も異動になったそうだ。保育園には新しい保育士さんがたくさん入り、障害者差別解消法や合理的配慮に関して理解している人が増えたようにも思う。そして長女の担任は最高の人だった。僕と妻が感謝ばかりしていたら、「やめてください」みたいにする人だ。素晴らしい人だ。長女も担任の先生が大好きだ。名古屋市にもそういう保育士さんはいるし、そういう保育士さんが活躍できる保育園が増えればいいと思うし、それには保育園の雰囲気もよくないとダメなんだろうと思う。

 

前の主任は、きっと、保育士の労働環境を守ろうとしていたんだと思う。それはそれで大事なことだ。それは分かる。僕もいろいろな場所で働いたから、そういう主任のような人にはたくさん会った。労働者が労働をサービスでしてはならないとも思う。それに、ある程度の手抜きやサボりは長続きさせるには必要なことだと思う。しかし、それらは何事もバランスだ。名古屋市の制度がグレーな箇所が多いからといって、それを黒くする方向で頑張ってしまうと、制度自体が黒くなってしまって、制度としての問題点ばかり出てしまう。そして、問題のある制度は当然、論理的な破綻を起こしてしまうので、そもそもの法律などから外れてしまう。なんのための制度なのか、ということを見極めた上で、都合よく運用するくらいがサボりや手抜きとしてのギリギリなところだろう。

 

障害者差別解消法や加配制度に関してはいえば、それは障害児のためにある法や制度なのだから、保育園のため、あるいは、保育士の労働環境改善のために使ってしまうとおかしなことになってしまう。加配制度によって存在する加配担当を、加配児童の保育以外に従事させて、他の保育士の仕事を軽減させようとすると、やっぱりおかしいことになる。統合保育という理念を悪用していることにもなる。

 

取り組みに困る!<3>(自閉症児篇)に続きます。