いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

レジャーに困る!<5>(ボストン篇)<レジャーの意味がわかってきた>

レジャーに困る!<4>(ボストン篇)の続きです。

 

僕はレジャーの経験が少なかった。そのためレジャーの意味が分からないでいた。それが楽しいのかなんなのかも分からなかった。子供が生まれてみると、家族連れのレジャーの話などを聞くことも増えた。子供の頃にいろいろと連れて行ってもらったから、自分の子供もいろいろと連れて行きたい、みたいな話を聞く。僕にはそのような経験がほとんどないため、子供にいろいろとしてあげたいと思いながら、具体的なイメージがなかなかできないことが多々ある。レジャーもまた僕の知り得ないことだった。そんなことからレジャーを考えるようなった。僕は子供と海に行った。

 

困ったことがあった。

 

乳児の長女がハイハイしている。砂浜をハイハイしている。手足に砂をつけながら、なんだか嬉しそうにハイハイしていた。砂に塗れたまま、レジャーシートの上にあがろうとするものだから、抱き上げて砂を払って、シートの乗った砂も払った。そして抱っこをすると長女は僕から抜け出したがったので、またシートにおくと砂の上をハイハイする。僕は僕で、長女から僕に移動した砂を払う。こんなことが何度かあった。しまいには、僕の方に寄ってきてもまたすぐ砂の上に行きたがる長女に対して、僕の方に来ないように誘導したりしていた。

 

長女は、野外にいることが好きな赤子だった。公園でも無敵のハイハイでトドラースペース(幼児用の場所)を暴走する。ボストンで僕らがよく通っていた公園には、幼児用の場所というのがあった。そこは乳児から幼児が遊ぶことになっているけれども、たまに大きな子供も来ることがあった。まあ、これは日本の公園も同じだけれど、なぜか幼児などが遊んでいると小学生ときには中学生くらいの子供が幼児の近くで危険なことをするということがある。大人の注意を引きたいのかなんなのか分からないが、事故やその後の賠償金などを少し想像したら怖くなりそうな遊びをする10代というのはどこにでもいる。危ないことが分からないというよりも、危ないことを分かっているからこそやっている。ここにはいじめや争いが好きな人間の抑え難い暴力性のようなものがあるのだろう。ボストンの公園にもたまにそんなティーンがいて、幼児たちは怖がって遊べなくなる。しかし、長女はハイハイのままティーンの中に入って行く。「うわ、ベイビーきちゃった」みたいになってティーンが去っていくこともあった。長女は野外では大胆だ。

 

そんな野外好きな長女にとって、海のレジャーというか砂浜のレジャーは気に入ったようだった。

 

砂だらけになる長女の砂をいちいち払って、そして僕に近づこうとすると、別の場所に誘導するというのを繰り返していたら、妻がそれを見て笑っていた。妻から見ると、僕が長女に遊ばれているように見えたようだった。僕は僕で家に帰りたいと思っていたけれども、砂をつけては執拗に僕に向かってくる長女というのも、砂浜でないとできないことにも思える。つまり、こんな些細なことがレジャーの楽しみなのだ。まあ、それがレジャーの楽しみであったことを、数年経ってから、微笑ましい思い出として長女に話したときに気がついたというだけなんだけれども。

 

僕は海に入らなかった。ただ砂をつける長女とのイタチごっこをしていただけなんだけれども、なんだか楽しい思い出になっている。その日、何を食べたかどうしたのかはあまり覚えていないが、長女の砂を払ったことと、長女の嬉しそうな顔はよく覚えている。

 

海辺のレジャーの片付けは簡単だった。スーパーで買ったサンドイッチや果物くらいしか食べていなかったからかもしれないし、小さな子供がいる場合はそのくらいで十分なのかもしれない。帰りは知人に送ってもらって、力づくで取り付けたチャイルドシートの取り外しに苦労したというのも覚えている。

 

旅行にしてもレジャーにしても、家に帰ると、「やっぱり我が家が一番」という確認をするわけだけれども、その日も我が家が一番だと思った。なぜなら、長女に砂がつかないからだ。しかし、レジャーの楽しさとは、そういう家では起こり得ないことが起こるということなのかもしれない。毎日を同じように過ごしたがる僕のようなものはレジャーが苦手だけれども、毎日を同じように過ごしているからこそ、こういうたまに違うことをすることに拒否反応が多少あったとしても、のちのちに微笑ましく思い出せる日が来ることを思えば、大事なことにも思える。

 

そう考えてみると、レジャーの目的とは、一見、レジャーに行くこと、そこで楽しむことにあるように思えるけれども、実際には、レジャーに行くことや楽しむことはレジャーのおまけのようなもので、大事になるのは、そのあと、家族や友人たちと、いつもと違う関わりをしたという思い出なのだろう。ボストンで海のレジャーに共にいった知人夫婦とは住む場所も遠くなりすっかり疎遠になってしまったのに、数年経ったいまでも夏になると思い出す。これこそレジャーの意味なのだろう。

 

僕のように即物的に判断してしまうと、こういうレジャーの遠い意味に気がつけない。レジャーには時間が経ってから味わうようなところがある。まあ、それもこれもレジャー経験が少ない僕だから思うことかもしれない。毎年、同じ場所にレジャーをしにいっていたら、それはそれでまた別の楽しみが見出せるのだろう。いろんなレジャー感があるのかもしれない。せっかく家族や友人たちに恵まれたのだから、僕もレジャーに参加してみようと思った。

 

そうそう、ちなみに、その後もアメリカにいるときにレジャーに行った。旅行でいえば、ニューヨークとフィラデルフィアだけれど、その二つは妻の仕事と僕の仕事の関係で行ったからレジャーとはあまり思っていないけれど、ケープコッドというレジャーの場所に行ったことがある。このことは次にでも書こうと思う。

 

いま、僕がレジャーのことを思い出すのは、双子が生まれてからというもの、育児が忙しくとてもじゃないけれども、どこかに出かけるという気が起きなかったが、最近、育児も少し落ち着いてくると、どこかに双子も連れて行きたいと思うになったからだった。妻の仕事の関係で何度も引越しをしていた僕らも落ち着いてきた。双子はまだ手がかかるけれども、トイレやお着替えは自分でできるようになってきたというのもあって、やっと家族ででかけられる気がしている。実際、友人の助けもあって、半年くらい前にスペイン村に泊まりにいった。このこともまた今度書いてみようと思う。