いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

発達障害に困る!<下>(自閉症児篇)<大人になってから診断されるのはつらいと思う>

発達障害に困る!<上>(自閉症児篇)の続きになります。

 

名古屋市発達障害総合診療研究センター(仮)ができるらしい。それはそれでいいことだと思う。子供のうちに適切な診断と療育があるだけで発達障害を持つ人はずいぶん生きやすくなると思う。

 

最近、僕の友人たちが発達障害と診断されて困った状態になっている。もし、彼らが子供のときに診断されて適切な助言をもとに生きていたら、もしかしたら少しは変わったのかもしれないとも思うことがある。

 

困ったことがあった。

 

発達障害は取扱がとても難しいと思う。僕の友人にも何人かいる。そして彼らは、40歳を過ぎたあたりで職場や人間関係にトラブってしまって、休職したり、離職したり、うつ病になったりして、病院に行ったところ、そこで初めて発達障害と診断されたということだった。

 

奇妙なことだけれども、彼らは大学受験や就職までは優秀だったりする。優秀に見せるのが得意だったという方がいいかもしれない。機を見るに敏感だったり、他者の評価を気にして自分の進路などを決めるから一見順調に見えるし、本人も順調だと思っているらしい。優秀な人材だと自分のことを思っているし、それを否定する材料が少ない。友達が少なめだけれど、友達の少なさも最近の風潮とマッチしていて、損得勘定だけで生きることに違和感を持つことがないまま、若いうちは乗り切れるようだ。

 

発達障害の診断はちょっと怪しいと思うこともある。友人たちはみんな、ADHDアスペルガー症候群(いまでは別の言い方をするらしい)の両方を診断されたそうだ。しかし、僕は彼らを10年以上、または20年前から知っていたというのもあるし、元々人間関係で揉めがちな彼らにはADHDじゃないの? とよく言っていた。しかし、彼らはアスペルガー症候群の方がかっこいいと思っているようで、人前ではアスペルガー症候群の真似をしてしまうらしい。アメリカと韓国ではアスペルガー症候群と診断されたい人が多いというデータをどこかで見たことがある。漫画や映画などでアスペルガー症候群が特殊能力があるかのように描かれるから、憧れてしまうのだろう。

 

大人の発達障害が難しいのは、彼らが演じてしまうというのがある。ADHDと診断された僕の友人たちは、そのときそのときで都合のいい、あるいは悪いことを演じることがある。そのため仕事はもちろん、友人関係ですら難しいと思うこともある。若い時は新しい環境などに入ることも多いし、どこかで誰かがフォローしてくれたり、僕なんかも彼らの長電話に付き合ったりもしていたから、彼らもどうにかなっていたようだった。

 

しかし、40歳くらいになると、彼らがトラブったとき、誤魔化したとき、衝動にかられたとき、パニクったときにフォローしてくれる人はいなくなる。そして、休職、離職、鬱になった。もともと気分というか機嫌のアップダウンが激しいというものあるから、心配する人もあまりいない。鬱、トラウマという言葉を若いときからばら撒いて周囲を疲れさせてきてしまったというのもある。自己中で損得勘定でしか動かず、上に媚び、下に厳しい人と思われているのだから人望もない。

 

これとは逆に自閉症アスペルガー症候群と言われていた人たちは、僕の知る限りでは、歳を取ればとるほど安定していったようにも思う。自分の場所が作れたからなのだろうか、若いときにはトラブル続きだったけれども、40歳を過ぎると頼りにされている人が多いのが不思議だ。ただちょっと騙されやすいのか、いつも機嫌良くニコニコしているけれども人間不信があったりもする。

 

40歳すぎて発達障害と向き合うのはつらいことだと思う。もし、彼らが子ども時代から自身の発達障害と向き合い、そして適切な助言を受けていたらどうなっていただろうか。少なくとも、強すぎる自己肯定と自己否定に悩まされることはなかったかもしれない。現在の彼らが悩んでいるのを見て、自己責任だとか個性だとか言って突き放す気持ちにはなれない。ただ、僕も彼らにどう向き合えばいいのか分からないというのがある。

 

「昔から言われていたことがやっと分かったよ」

 

そんなふうに言われても、僕はあまり助けてやれない。彼らの毎日のようにかかってくる長電話も育児があるから付き合うこともできなくなってしまった。僕もまた彼らの元から去っていく人になってしまうのかもしれない。

 

いま子どもたちの送迎時に保育園で他の子どもたちを見ることがある。たまに、発達障害かな、と思う子もいる。保護者はなかなか気が付くことはできないが、専門的な視点を持った方が保育園にいれば、適切な助言などによって、40年後の孤独から救えるのかもしれないと思ったりもした。

発達障害に困る!<上>(自閉症児篇)<発達障害に対して思うこと>

名古屋市発達障害総合診療研究センター(仮)ができるらしい」(長女5歳3ヶ月)

 

困ったことがあった。

 

育児と家事も終わってテレビを見ながら妻の職場の愚痴を聞いていたら、気になるニュースがやっていた。

 

2023年度中に「発達障害総合研究センター(仮)」というのが名古屋市にできるらしい。

 

発達障害などの調査、研究と、小中学校や保育所学童保育などの職員などへの助言や、研修、支援プログラムの提供や、診療所や地域療育センターに専門医を確保して提携するということだった。

 

とてもいいことだと思う。僕らは、2022年度中に名古屋市から引っ越してしまうから、この新しい取り組みがどういうことになるのか体験することもないけれども、名古屋市は保育園だけでなく、療育センター、そして名古屋市の職員、社会福祉センターなどなど、発達障害や障害児に関わる機関や大人たちの対応がひどすぎると思っていたので、助言にとどまらず、指導も含めてどんどんやってほしいと思う。

 

自閉症児や発達障害の子どもには周囲の理解がどうしても必要だ。それは過剰に対応して欲しいというのではなく、「違うこと」があるということを理解してほしいというもので、そしてその「違い」に対して、制度的に、法的に認められている配慮をしてほしいということだ。

 

制度的、法的に認められている配慮をしてほしい、という要望に違和感を覚える人もいると思う。制度的、法的に認められていないから何かを求め、訴えるのであるのなら分かるが、なぜ、すでに制度や法で認めら得ていることを求めるのだろうか、と。

 

例えば、窃盗はしちゃいけない、というのは法律できまっている。にもかかわらず、本屋さんやスーパーマーケットなどで「万引き禁止」みたいな張り紙があったりもする。痴漢行為は禁じられていても、「痴漢アカン」なんてポスターが必要になっていたりもする。それと同じように障害がある者に対して認められている権利が法律で決まっていても、そのための配慮を認めようとしない人たちがいる。万引きする人や痴漢をする人がいるように、合理的配慮を拒絶する人というのもある。

 

万引きや痴漢との違いは、障害者差別解消法に違反しても罰則がないということだ。万引きや痴漢の被害者と合理的配慮の拒絶による被害者は同じようには扱われないし、合理的配慮をされなかった人を被害者として扱うようにはまだなっていない。10年後、20年後にはそうなるかもしれないけれども。

 

障害者差別解消法という法律があったとしても、周囲の理解がないことには障害者は被害を受けている状態になってしまう。

 

内閣府で障害者差別解消法のパンフレットが配布されているのと、各自治体は障害者差別解消法を周知する義務がある。内閣府厚生労働省の方に話を聞くと、周知義務に関しては名古屋市のような政令指定都市に対して国からああせいこうせいと注意指導は直接できないが、周知義務があることを説明することはできるということだった。国からの説明を名古屋市役所がどう受け止めたのかは知らないし、当時、市役所と揉めていた僕に、名古屋市の担当者から何かを知らされることはなかった。

 

そして、名古屋市としては、障害者差別解消法などについて、すでに研修は行っているということだった。そして、今後も、周知や研修をおこっていくということだった。そんな名古屋市からの書面を受け取ったけれど、どうせ口だけだろうと思っていた。研修内容や期間、日時、予算等、実際に研修が行われているかどうかの詳細は一切教えてくれないのだから、やっているのかいないのかも分からない。

 

もう一つ根深い問題がある。

 

障害者差別解消法の合理的配慮がなされない大きな理由の一つに、なごや子どもの権利条例というのがある。この条例ももちろん大切なものだが、現場では、この条例と障害者差別解消法がダブルバインドのようになっている。これは地元愛、郷土愛が強い名古屋に特殊なことなのかもしれないけれども、国の法律よりも、名古屋市の条例を優先してしまうという事態になっている。

 

具体的にどういうことかというと、

 

現場の条例解釈は、すべての子どもを平等に扱い、すべての子どもに合理的配慮をするため、一部の子どもを特別扱いすることはできない。そもそも、すべての子どもに合理的配慮を行っている状態である。という前提が名古屋市の保育園とそれを取り巻く各機関(社会福祉協議会名古屋市役所など)にある。

 

そして自閉症児などの障害児だけでなく、発達障害の子どもへの合理的配慮やケアが疎かになってしまう根深い問題は、「子どもの発達はそれぞれだから発達が遅れていても、その子どもの個性なのだから気にしない」「子どもはみんなそう」という認識が強いということ。これはなんというのか、近所のおじさんおばさんや、保護者たちや、じいじばあばが言ってしまうのであれば仕方ないけれども、専門性が求められている保育士や保健師、市職員が、育児や発達心理学の専門的な知識がないじいじばあばと同じように考えてしまうとちょっとやばいことになる。

 

名古屋市の条例と、「子どもはみんな一緒」「発達は個性」という認識によって、障害者手帳を持つ障害児の合理的配慮は拒絶され、発達障害の子どもは放置される、という事態を招いているように思う。

 

そんな名古屋市に、「発達障害総合研究センター(仮)」ができるというのだから、頑張って欲しいと思うし、助言や研修を行う上で、名古屋市の条例がどのように解釈されているのかという現状把握や、障害者差別解消法への理解度の底上げ、そして発達に対する専門的な視点をどうのように広めるのか、という課題があるだろう。

 

長くなってしまったので、発達障害に困る!<下>(自閉症児篇)に続きます。