いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

上着に困る!(自閉症児篇)<虐待なのか、それとも症状なのか>

自閉症児の感覚過敏は見守ってください」(長女2歳)

 

困ったことがあった。

 

自閉症児に限らず、子どもは風の子、元気の子ということで冬に薄着でいる子はいる。暑がりな子に上着を着せるのは手間がかかるものだ。自閉症児の場合は感覚過敏やこだわりが強いことも多いため、上着を着せるというのが通常より厄介になりやすい。

 

程度の問題でもある。

 

よくあること、というのは、1日に1回あることと、3日に1回あること、1週間に1回あることも、だいたい「よくあること」になってしまう。主観的な判断なのだから、それぞれの「よくあること」を比べることはなかなかできない。

 

発達の段階でよくあることの場合も、ある時期の1週間よくあった、ある時期の2週間よくあった、1ヶ月よくあった、という場合と、一年ずっとそうだ、というのは違っている。発達の段階である時期によくあったことが、数ヶ月、一年と続く場合は、発達障害の可能性もある。

 

自閉症児を育てていて思うのは、こういう「よくあること」「うちもそう」みたいな反応で、なんて言ったらいいんだろうということだったりする。もしかしたら、うちの子と同じで「よくある」と思っているなら、その子も自閉症児かもしれないというのもある。

 

そんな「よくあること」の一つに、寒くても上着を着ない、というのがある。

 

よくあることだ。

 

ボストンの冬は寒い。まあ、たまに半袖のまま外を歩いている屈強なマッチョを見ると、上着を着ない大人もいる、マッチョ界では「よくあること」かもしれない。マッチョはさておき、多くの人が防寒着を着ている。もちろん子供も着ている。自閉症児の場合は、そんな寒くて寒くて仕方がないようなときでも、上着を着てくれない。無理やり着せても脱いでしまう。

 

上着を着せているだけなのに、虐待でもしているかのように泣き叫ばれることもある。そして上着を着せないでいると、ガチガチと震えている。その方が虐待だろうと思えなくもない。

 

長女は上着を着るのがとことんイヤだった。上着が気に入らないのかもしれないと、3着、4着と購入したり、譲っていただいたりしてもダメだった。手首あたりが圧迫されるのが嫌なのかもしれないと、手首を締めるためにあるゴムをハサミで切ったりもした。

 

実は、僕も上着が嫌だった。僕の場合は、手首にゴムがあるタイプが嫌だったので、ずいぶん大きくなるまで、手首にゴムがあるタイプのものはハサミで切っていた。他にもウールが嫌だったし、首に何か当たるのも嫌だった。だから長女の気持ちは分からなくもない。

 

長女の上着にあれやこれや試して着せてみる。アパートの外にでると、急に泣いて上着をとってしまう。そして逃げる。追いかけられると機嫌が良くなる。外はじっとしていたら寒いけど走り回っていれば上着がなくてもあったまるからかなあ、とか思っていた。

 

60歳くらいのおばさんが話しかけてきた。

 

「分かる! うちの子も全然、上着を着てくれなかったの!」

 

「彼女はオーティズム(自閉症)なんです」

 

アメリカでは自閉症なら自閉症と早めに行った方が配慮をしてくれたり、助けてくれたり、少なくとも余計なことは言われなくなるので、すぐに言う癖がついていた。

 

「うちの子もオーティズムなのよ!」

 

理解してくれる人がいると、長女との追いかけっこも辛さが半減する。遊んでいるように見えるが、冬に外に出しているのは、上着に慣れさせるためにやっている訓練だった。

 

少しずつ上着を着てくれるようになった。何着も上着を用意して、その日に長女に選ばせる。自分で選んでおきながら、道路に放り出してしまうこともある。そうして、少しずつ慣らしていくしかない。ただ、慣れるのが人より時間がかかるだけなんだ。

 

1ヶ月以上、上着を着せる訓練をして、やっと上着を着ても泣き叫ばなくなった。これで冬でも長女と外出ができる。

 

自閉症児の場合、「よくある」ことが、何度も起こったり、期間が長かったりするものだ。だから自閉症児の親はくたくたになって、愚痴っぽくなって、「うちもそうだった」「あるある」とか言われると、死んだ魚の目をしながらぼんやりと相手の良く動く口を眺めてしまう。

 

上着、靴、これらは鬼門だ。靴も何度も替えた。幸い、長女が履かなかった靴はそのまま双子のおさがりになっている。双子も上着を嫌がったり靴を嫌がったりするけど、一過性のもので、それこそ「よくあること」で笑って済ますことができる。

 

長女は靴も履けなかった。どうにか履いてくれたのは、底が薄い革製のルームシューズだけだった。通りかかった人から「ちゃんとした靴にしてあげないとかわいそう!」とか言われたことがある。アメリカで、そんな余計なことを言う人は珍しい。「オーティズムです」と言うと、そそくさと去っていく。何がしたかったのだろうか。言いたくないけど、そういうことを言ってくるのはアジア系が多かった。

 

4歳になった今でも長女は上着を着るのが苦手だ。上着を一緒に買いに行って、お気に入りの上着を買っても着ない。2年前に買った小さくなった上着を着ていることがある。

 

上着を着ていない子や、明らかに小さな上着を着ている子がいたら、優しい目で見て欲しい。自閉症の知覚過敏やこだわりの強さで上着を着てくれないことがある。そして上着を着てもらうには何度も何度も試みて、上着が馴染むまで根気のいる訓練があったりもする。上着を着ないのは虐待でもないし、小さな上着になっているのは愛されていないからじゃない。疲れ果てている親の顔を見ながら余計なことを言う必要なんてどこにもない。

 

汚れている上着を洗濯したら着てくれなくなることもある。虐待かと思われてしまうかもしれないという不安の中、ぎりぎりな気持ちで子供を連れていることもある。汚れた上着もそれぞれだ。

職場の愚痴に困る!(主夫篇)<人間関係が苦手なのに不思議だ>

「大変なんだろうけど、たまに羨ましくなる」

 

困ったことがあった。

 

僕の本業はフリーランスと言われるもので、決まった職場があるわけでない。取引先みたいなものと直接契約をして、基本的には1人で仕事をしている。企画によっては何人かのチームになることもあるし、部下やアシスタントみたいな人がつくこともあったし、会議もある。人間関係は気楽なものだ。長くても一年で関係をリセットすることもできる。

 

フリーランスだから人間関係がないというわけでもない。定期的な仕事というのもある。フリーランスにとって定期的な仕事は定期収入になるわけだから収入や信頼、実績を考えると、定期的な仕事は大切にしなきゃならない。だけど、定期的な仕事をしていると、チームや取引先との人間関係なんかも出てきたりして面倒にもなる。たまに取引先の会社や組織などから社員にならないか、というお誘いを受けることもあったけど、組織で動くのは苦手だからフリーランスでやっている。僕が苦手というよりも、組織側の方が僕みたいな人間を苦手になるのは少し関係ができてからの雰囲気で分かる。

 

僕はすぐに原則や規則を明らかにしたがる。どんなところでもグレーゾーンがあって、厳密にしないことで円滑に業務を行うことがある。グレーゾーンはグレーゾーンでいいのだけれども、グレーゾーンと思っていても、原則や規則を考えれば違反している可能性がある。あとで何か言われるのは嫌だというのもあるから、できるだけ明確にした上で業務を遂行したいと僕は思うのだけれども、グレーゾーンがグレーゾーンであるためには、はじめから「知らなかった」「分からなかった」という言い訳を担保する必要もあらしい。知らなかったと後で言い訳するために、できるだけ原則や規則を知らないようにするというやり方が僕は苦手だ。

 

原則や規則を知らないこととしてグレーゾーンで仕事をしていると、トラブルがあったときに、裏切りに合いやすい。共犯だと思っていた相手に裏切られてしまう。裏切られても、そもそもの原則や規則を無視していたということで、責任を取らされるというのも嫌な話だ。

 

職場の愚痴って、だいたい、こういう原則や規則をお互いがなあなあにすることからはじまっていると思う。全てを明らかに公明正大に仕事をしている人は頭の硬い使えない奴だと思われるし、多くの場合、グレーゾーンに手を出さない人は公明正大だからというよりも、ただ保守的で自分のことだけを考えているから手を出さないだけという場合も多い。何かをやろうとしたときに愚痴は生まれやすい。黙って動かない上司や裏切る部下、保守的で何も反応のない同僚。そんな中で職場をよりよくしようとしたら、擦り切れてしまう。

 

僕はそんなことが嫌だったからフリーランスになったし、定期的な仕事もそういう面倒な事態になってくると、俗に言われるおいしい仕事であってもやめてしまう。そんなだから何年経っても本業の収入が増えないし、場合によっては始めた頃より低くなった。いつまでも駆け出しの頃と同じように副業でしのぐことが多かった。そんな副業も一年もいると妙な人間関係に巻き込まれて眠れなくなるので、転々としていた。

 

妻はじっくりと腰を据えて仕事をする。頼りにされるタイプだし、人を立てたりするのもうまい。組織仕事は嫌いみたいだけれど、なんだかんだとうまくやっているし、グレーゾーンが嫌いなのは僕と同じだけれど、波風をあまり立てずにグレーゾーンに白黒つけていって、組織のシステムを変えていく。さすがだなあと思う。

 

そんな妻でも仕事の愚痴を言うことがある。

 

仕事の愚痴を聞くのも、主夫の仕事だと思って、うんうん頷いたり、ときには余計かもしれないアドバイスもする。同じような愚痴を聞くと、またそれ? と思うこともあるけど、妻からしたら違う状況での愚痴だとも思うから、できるだけ聞くようにもしている。育児の愚痴だって同じ愚痴でも言葉にして出せるとスッキリするものだ。

 

たまに、仕事の愚痴が羨ましいと思うことがある。

 

僕は組織が苦手だし、愚痴りたくなる環境からはさっさと逃げてしまうわけだから、愚痴が出るような環境に耐えることなんて羨ましいはずもない。なのにたまに羨ましくなる。

 

育児や家事の愚痴だってたくさんあるし、妻にもよく聞いてもらっている。だから愚痴が羨ましいわけじゃない。

 

きっと妻が多くの人たちと関わっているのが羨ましいんだろう。今の僕の人間関係は、家の中と昔からの友人たち、そして減ってしまったとはいえ仕事の関係がある。だけど職場というものはない。

 

妻の愚痴を聞きながら、職場っていいなあ、って思っている。育児や家事も立派な仕事だよ、と言われるけど、職場という感じはない。仕事より家庭の方が大事だと思ってはいても、職場はクソだと思ってはいても、職場の感じが羨ましくなる。言い方はおかしいけど、職場はゲームみたいな感じがしている。

 

働いていると、クソゲーにしか思えないかもしれないけど、ゲームをする楽しさというのはある。それは目の前の衣食住という目の前のことから逃避できる楽しさのようなものかもしれない。