自問に困る!<2>(自閉症児編)の続きです。
長女が保育園の年長さんになった。年少、年中と長女の障害を理解してくれた保育園(この保育園も年少の頃にとても揉めて、名古屋市からの指導もあって軽度知的障害に対する理解を持ってくれるようになった)から引っ越しのために別の保育園に転入することになった。僕らとしては、名古屋の保育園での経緯や、どのような障害特性があり、どのようなトラブルが起きやすいかなど前もって相談したけれども、軽度知的障害に対して多く見られる周囲の反応であるところの、「普通に見える」ということを乗り越えることはできなかった。その結果、何人かの保育士さんは長女の障害特性を理解してくれてはいたけれども、肝心の担任の年配の保育士さんは、保育経験からくる自信もあるからなのか、「この子は普通」という考えを変えてくれなかった。それはそれでいい部分もあるのだけれど、長女の言動には変化が現れた。それが「どうせ、長女ちゃんはできないし」という口癖だった。
この口癖の原因が分からないでいたときに、ふと、転入以来長女と仲良くしてくれているお友達の存在が気になった。
困ったことがあった。
その子は、僕が長女をお迎えにいくと、僕に向かって「見て見てー」と言ってさまざまなことをやって見せてくれる。「長女ちゃんにはできないけれど、私はできるよ」とよく言っていた。長女はニコニコとしてそれを見ている。長女は家に帰ってきてからも、「〇〇ちゃんは、こんなことができる」「〇〇ちゃんがこんなことをした」と嬉しそうに話してくれる。これもそこだけ切り取れば、仲の良いお友達との微笑ましい話だ。しかし、そんなときに、「どうせ、長女ちゃんはできないし」というネガティブな発言も混ざるようになってきた。
これは子供同士や、障害の有無など関係なく、人間関係でたまにあることにも思えた。いわゆるマウンティング行為というようなもので、自分の有能さなどを確認するために自分より劣った人と比べるというものだ。こういうタイプの人は、大人でも子供でも孤立しやすいが、たまに、長女のように、言語認識が低かったり、自閉症などの社会的な人間関係から少し距離のあるタイプの人は、このようなマウンティング行為が理解できないため、一緒にいつづけることがある。僕も自閉症なので、マウンティングをしてくる人に対してそんなに抵抗感が比較的少ない。「へー、すごいねえ」とか今でも言っているし、素直にそう思っている。思い出すと、小学生のときにもそんな友達がいた。周囲の友達から「あいつ、自慢ばっかりじゃね?」「あいつと遊びたくねえよ」と言われているようなマウンティング癖のある人と僕はずっと友達だった。地元から離れて連絡も取らなくなって20年くらい経ったとき、その友人が家庭を持ち、家を建てたということを話すためだけに僕に連絡をしてきたことがあった。考えてみると、そのときの連絡も、僕の年収やら環境やらを聞いてきて、始終、いわゆるマウンティングをしていたと思う。僕は小学生のときと同様に、「すごいねえ」と言っていた。まあ、ちょっと違っていたのが、そのときは僕も家を建てていたりしたけれども、そんなことを言うとその人が傷つくと思ったので、何も言わないようにしたという配慮をしたというくらいだ。マウンティングに対しての拒否感はあまりないけれど、マウンティングと言われるようなことをする人に対して客観的な価値が認められるものを示すことは相手を苛立たせたり、傷つけたりして、面倒な目にあうということを、僕なりに学んでいた。相手の気持ちはよく分からないが、現象としては理解しているつもりだ。
長女もきっと、僕が子供の頃にされたようなマウンティングを受けていたのだろう。そして僕と同様に、それをイヤとも思えないものだから、ただただ相手のことをすごいと思って、自分にはできないなあ、と思ったのだろう。「どうせ、長女ちゃんはできないし」という僕からするとネガティブに聞こえる言葉も、長女はネガティブな意味で使っているのではなく、お友達から、「長女ちゃんはできないでしょ?」のようなことをよく言われるために、使うようになったのだろう。あまり気にすることでもないようにも思えるけれども、それ以前の、長女の活発さが萎縮しているようにも思えたため、僕は気にした。気にしたけれども、積極的に何ができるというわけでもないので、気にしながら、様子を見ていた。当時の自発管にも気になることとして相談し、積極的なアプローチはせずに、観察を続けるということになった。
自問に困る!<4>(自閉症児編)に続きます。