いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

お返事に困る!(自閉症児篇)<保育園で覚えてきたお返事>

「考えてみると切なくなる言葉もある」(長女3歳10ヶ月)

 

困ったことがあった。

 

長女の言葉は順調に増えていた。ただ、自分の欲求はまだ上手く伝えられないため、クレーン行動や、突然泣き出したりすることなどが多かった。

 

言葉による認識が遅れているとはいえ、長女にはずっと言葉をかけ続けた。伝わりやすい言葉を探すこともあるし、少し難しい言葉でも日常的に使われる言葉は何度も何度も意味を教えていた。シュチュエーションを再現してみたり、ジェスチャーなどで示してみたり、言葉と意味をつなげる作業。

 

長女は、「何で?」と聞くことがない。「これ何?」と最初に言ったのは次女だった。

 

次女の「これ何?」は、意味を持っていることもあれば、何も聞いていないこともある。食べ物が好きな次女はテレビや絵本などで食べ物が出てくると「これ何?」と聞いてくる。育児が楽しいと思えるのはこういう瞬間だ。

 

「これはハンバーグ」

 

「ハンバーグ?」

 

「そうハンバーグ、食べたい?」

 

「食べたい」

 

長女とはできない会話を嬉しいやら寂しいやらといった気持ちでしていた。

 

長女は次女と僕の会話を何度も見ていたのか、「これ何?」とか聞くようになってきた。最初は尋ねるわけでもなく、何かを知りたいわけでもなく「これ何?」と言っていたけれども、だんだんと「これ何?」の意味が分かってきたらしく、適切に使うようになってきた。すると、いつの間にか次女の「これ何?」のレベルを超えてきた。

 

次女の「これ何?」に長女が答えていた。

 

「これ何?」

 

「コキンちゃん」

 

ちなみに、長女はドキンちゃんもコキンちゃんもどっちも「コキンちゃん」になる。三女はドキンちゃんとコキンちゃんの区別がつくため、この認識に関しては三女の方が正確だった。

 

長女は三女の影響を受けて、ドキンちゃんとコキンちゃんの区別がつくようになっていた。

 

「コキンちゃん、リボン、あるねー。ドキンちゃん、リボン、ないねー」

 

説明までできるようになっていた。著しい進歩に驚かされていた。

 

言葉が出てくるのは何も喜ばしいことばかりでもない。たまに、なぜその言葉を言うようになったのかを想像して切なくなることもある。

 

長女は運動会があったあたりから、「はい! わっからました!」ということがあった。最初は、「分かりました」という長女に成長を感じて嬉しく思っていた。

 

しかし考えてみると、うちでは「分かりました」とはあまり言わない。「分かった?」と聞くことはある。しばらく後になると、次女や三女は「分かった」という言葉を覚えて、僕が何かを言うと「分かった」と言うようになった。長女は「分かった」ではなく「わっからました!」と言う。

 

なぜ「はい! 分かりました!」と言うようになったのだろう。発語の仕方も妙にビシッとした感じだ。

 

保育園で教えられたのかもしれない。

 

「分かった」よりも「分かりました」の方が、丁寧だし、キチンとしているのだろう。なのに違和感がある。仕事で「分かった」とか返事をする人がいたらちょっとアレだし、「分かりました」の方がいいだろうし、昔話題になった「承知いたしました」とか「了解いたしました」とかのようなややこしい話もあるけれど、「分かった」というより、「分かりました」という言葉を覚えた方が失礼がない。

 

失礼がない。誰にとって? 長女にとってではない。長女と話す相手に失礼がない言葉、それが「分かりました」になるのではないか? 

 

子供が相手を気遣ったような言葉を使うのは微笑ましいこともあるかもしれないし、なんだかお育ちのいい感じもするから、相手に失礼のない言葉を教えることも必要だと思うのも分かる。それに、僕にしても、「はい! わっからました!」という長女の返事が可愛い感じもしたし、たまに長女もよく分からなくなって、「わっからまわしました!」とかになっていて、それはそれで微笑ましく思っていたのだから、言葉を覚えていく姿には感動すら覚えていた。

 

とはいえ、「はい! 分かりました!」と返事をする長女はどうして、そんなお返事を覚えてしまったのだろう。

 

長女は言語の認識能力が低いため、言葉による指示だとパニックを起こしてしまうことは、何度も保育園にも伝えていた。お迎えのときに、上履きを脱がずにマットのある教室に入ろうとした長女を見咎めて頭ごなしに叱る保育士がいた。

 

「うちの子は自閉症と軽度知的障害のため言葉による認識能力が低いという話は園で共有されていませんか?」

 

と今度は僕が保育士を見咎めると、その保育士は僕に一礼してそそくさといなくなってしまった。

 

そんなこともあったからなのか、長女の「はい! わっからました!」を聞くと、長女が保育園で頭ごなしにしかられ、理解できない言葉を前にどうしていいか分からないまま、「分かった」と言うように強要され、そして保育士に対して失礼のないように「分かりました」と言うようにされているのではないか、と想像せずにはいられない。

 

とある日本の小説の有名な場面に、「知りませんでした、ではない、忘れていました、だ!」と軍隊の上官が恫喝する場面がある。主人公ははじめから教えられていない規定や法を「知りません」と答えるが、教えられていないとしてしまうと軍隊の落ち度になるため「忘れました」と言わせて本人の責任にする、という場面だ。この主人公は頑なに「知りませんでした」と言い続ける。この主人公に僕が似ていると青年時代にはからかわれたものだ。

 

長女の「はい! わっからました!」を聞いていたら、複雑な気持ちになってきた。長女は分かっても分からなくても「わっからました」と言えば、その場で叱られることがないことを覚えたのだろう。自己防衛として学習したことは長女の発達を示しているのだから、発達に悩む親としては少し喜んだ部分でもある。それなのに、長女が「はい! わっからました!」という度に、僕はなんだか悲しくもなってきた。

 

「はい! わっからました!」よりも、「何で?」の方がずっといい。「これ何?」の方がずっといい。「何で、何で」と聞かれ続けるのはときにうんざりしてしまうけれども、「何で?」には悲しみはない。過保護に思われるかもしれないけど、「分かりました」と言えるような子供より「何で?」と言える子供に育って欲しいと僕は思った。