いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

分厚い本に困る!(ボストン篇)<岸辺なき流れと夜泣き>

分厚い本に困る!(ボストン篇)

 

「育児のお供は分厚い重い本」(長女1歳1ヶ月)

 

困ったことがあった。

 

長女の夜泣きは長かった。生まれてからずっと夜泣きをしていた。1歳を過ぎてくると、僕もさすがに慣れてきた。育児ノイローゼ気味だったり、糖質制限のせいで毎日ふらふらしてしまっていたけれども、夜泣きのリズムだけは慣れてきた。

 

僕の趣味は読書だった。18歳で一人暮らしをはじめてからずっと本ばかり読んでいた。18歳までは自室はおろか子供部屋さえもなく、本が読みたくてもテレビがついていたり、誰かに邪魔をされたり、図書館は図書館で居心地の悪い場所でもあったので、夜を徹して本を読むという喜びに触れたのが18歳になってからだった。

 

本をあまり読んだことがなかった僕はとりあえず国語の便覧に載っていたのを片っ端から読んでいった。古典の素養がなかったから、「平家物語」などは挫折してしまったけれども、それでも岩波文庫を中心にいろいろと読んでいれば、日本の古典もなんとなく読めるようになった。海外の古典は日本語訳で読めば、明治時代の多少硬い翻訳もあるけれども、だいたいなんでも読めた。

 

60歳までには1万冊は読める、と当時計算していた。

 

実際にはどんどん読むスピードも落ちてきてしまったので、40歳までで4000冊も読めていないかもしれない。30歳を超えたあたりからは年間100冊程度しか読めなくなったものだ。最近では年間50冊程度しか読んでいないかもしれない。

 

子供が生まれると、本などを読む時間はなかった。年間100冊で本を読まなくなったものだと思っていた僕からすれば、年間20冊くらいしか読めなくなってしまったのは18歳以降経験のしたことがないような状態だ。

 

育児の疲れと、糖質不足のイライラと、読書ができないストレスは僕をどんどん蝕んでいた。

 

読書が苦手な人からすれば、読書ができないことくらいなんでもないだろう、と思うかもしれない。読書は疲れるじゃないかと。

 

それは運動が嫌いな僕がジョギングをしている人や筋トレをしている人を見るようなものかもしれないし、山登りは僕にとっては狂気の沙汰だ。でも登山家の話は面白い。

 

読書の楽しさというのは、そういう人から見れば珍奇な楽しさかもしれない。よく本を読んだ方がいい、というけど、読みすぎると良いとかそんなことじゃない、頭がパンパンでぼんやりしていることだってよくある。仕事に支障をきたすこともあるし、人間関係だってギクシャクすることもある。読書に狂うと人は厄介になるし、手が付けられない頑固者になることだってある。なにごともほどほどがいい。だけど、一線を越えてしまった人の楽しさもある。

 

前置きが長くなってしまったけれども、そういう一線を越えてしまった人の話として聞いていただきたいのですが、その、育児で疲れ果てて、泣き止まない赤子を抱きながら、ベランダから外を見て、もういいか、とつぶやいては、とどまって、そしてふらふらしながら、夜泣きがおさまるのを待って、子供を寝かしつけて、気絶するように眠って、起きると、疲れしか感じないような、そんなとき、そんななのに関わらず、体力も気力も限界になっているにも関わらず、

 

分厚い本に手を出した。

 

僕も最初は、読みやすい短い本にしたらどうだと思っていた。内容もハードじゃないような、村上春樹あたりがいいんじゃないかと思っていたけど、ペラペラめくっても上の空だ。詩集はよかった。ニューイングランド地方の詩人を読もうと、フロスト詩集などを読んだ。何度も反芻したりしてよかった、普通の読書ならそれで十分だと思った。けど、僕が欲しいのはもっと強烈なガツンとしたものだ。

 

日本からいくつか持ってきた本があった。分厚い本をなぜ持ってきたのか、自分でも最初は分からなかったけど、もしかしたら、これが渡米するときの僕が込めたメッセージだったかもしれない。

 

渡米する一年くらい前からバタバタしていて、ハードな本が読めなくなっていた。仕事もそうだし、育児もそうだ。でも、渡米して落ち着いたら、そんな本が読めるんじゃない?っていうメッセージ。

 

ハンス・ヘニー・ヤーン「岸辺なき流れ」(上下)を開いてしまった。

 

ガツンときた。まず重い。重すぎる。1日や2日読んだところで、半分の半分すら読めそうもない。まるで長女の夜泣きの終わりを待つみたいなものだった。

 

僕は毎夜毎夜、長女の夜泣きの合間に「岸辺なき流れ」を読んでいた。いつの間にか読み終わっていた。時間の流れを波に例えるこの小説はこのときの僕にうってつけだった。そもそも僕は時間を川の流れのように感じるのが苦手だった。そう、時間は波のようだ。記憶は波のように現れる。プルーストの大河的な時間の中で突発的に思い出される記憶と、ヤーンの記憶は時間の感覚が違っている。

 

分厚い本にハマり出した。渡米の準備をした僕は頭がおかしくなる僕のことを予想していたのだろう。分厚い本がいくつもあった。

 

マルセル・シュオッブ全集もあった。夜泣きのお供として最適だ。

 

グロスマン「人生と運命」全3巻。平凡な人間たちの模様をジャーナリスティックに書き上げる様は、夜泣きの中で空想を凝らしている僕にぴったりだった。凡庸な本の偉大さを感じた。

 

ヘーゲル精神現象学」、アーレント全体主義の起源」、スタニスラフスキー「俳優の仕事」など、分厚かったり長かったりするものばかり読んでいた。

 

元気になった。中でもヤーンが僕に元気をくれた。長女の夜泣きを思い出すたびに、「岸辺なき流れ」を思い出す。育児に疲れて、もういいや、となっている人におすすめしていいことか分からないけど、育児疲れを吹き飛ばすのは、一線を越える何かが必要ではあると思った。