いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

自己責任に困る!(東京篇)<困っている人を責めてしまう>

「自分の方が困っている人になりたい人たち」(長女3ヶ月)

 

困ったことがあった。

 

育児には困ったことがたくさんある。どうしたらいいのか分からないとか、ちょっと疲れてきたときとかに、ネットで調べてしまうこともある。

 

「夜泣き」「母乳の飲み」「泣き止まない」「うんちの色」などなど、育児をしていれば一度は調べたことはあるかもしれない。

 

育児をするようになって、ネットで調べることも増えた。参考になるアドバイスもあったし、共感できる困り事もあった。でも、たまに「親のせい」「親のわがまま」「子供を育てる資格がない」とかそんな言葉も見かけて、怖くなっていた。なぜわざわざ困っている人を責めるのだろう?

 

僕の友人にはやべえ奴が多い。彼らに共通しているのは、友達がほとんどいないということだ。僕の友人にやべえ奴が多いというよりも、僕はやべえ奴でも友人関係を破棄したりすることがほとんどなかったから、そういうやべえ奴の数少ない友人になることが多いということかもしれないし、やべえ奴を面白いと思ってしまうからかもしれない。

 

彼らに共通しているのは、妙な厳しさがあるところだ。とくに自分以外の人に厳しい。困っている人がいても、彼らは自己責任だと責めてしまうことが多い。そんなだから友達が少ないわけなんだけれども、そういう態度や考え方はなかなか変えられないらしい。

 

彼らも困ることがある。そんなときに助けてくれる友達は少ない。彼ら風に考えれば、他人に厳しく、助けることもしなかったのだから、因果応報というか、これも自己責任なんだろう。彼らと同じように自己責任だ!と言って責めた方が納得してもらえるのかもしれないけれど、助けて欲しいと言われるとついつい助けてしまう。そして窮地を脱すると、また人に対して「自己責任だ!」みたいな態度になってしまう。なぜそうなってしまうのかは、心理カウンセラーでもない僕にはよく分からない。幼稚だなあくらいには思う。彼らに幼稚だと指摘すると異常なくらい怒る、泣いたりもする。共通のトラウマなのかもしれない。

 

彼らは自分勝手で、都合がいい。だから友人が極端に少ない。彼らを相手にする人はあまりいない。そして、いつも人間関係のトラブルを抱えている。職場での人間関係がよくこじれている。彼らにとって部下はいつも使えない奴らだし、上司はバカだし、同僚はクソだ。そんな愚痴を聞いているときに、そんな風にしか周囲を見れない君がやばいよ、みたいなことを言うと、今度は、部下に慕われている、上司には期待されている、同僚とは仲がいいみたいにコロッと言うことが変わる。そんな話を10年以上も言っている僕の友人たちとそれに付き合う僕。

 

彼らとはあまり会わないようにし、僕の他の友人たちに紹介することは極力さけ、一緒に仕事しようとも思わなかった。そういう直接的な利害さえなければ彼らの自己責任論や都合のいい考えも人間っておかしいなあ、という感じで付き合える。僕が健康で元気なときには彼らの相手もできる。

 

子供が生まれた。育児で疲れ果てた。そんなときに彼らと話すとロクなことがない。「育児はたいへんに決まっている」「親の自己責任だ」「大変だからって子供を虐待するなよ」「そんなことより俺の話を聞いてくれ」等々、案の定な対応だ。

 

ネットでもたまに見る、やべえ人たちのコメントと同じだった。ということは、あのネットで見るやべえコメントの人たちは彼らのような人なのではないか? とも思えてきた。

 

彼らは、寂しく、傷つきやすく、うまくいっていない。もちろん、本人たちはうまくいっているアピールをよくするけれども、10年以上話を聞いていれば彼らのうまくいかなさや、寂しさはよく分かる。困っている人を責める人はだいたい辛い状態なのだ。「俺だってつらいのに何言ってるんだ、甘えるな!」という気持ちが抑えられない。優しくなれない。優しくなれない人に優しくなろう、思いやりを持とうと言っても無理なのは、10年以上の話し合いで証明されている。本人の問題なのだ。自己責任というマジックワードにとらわれている人には何も届かない。

 

育児でキツかったから、彼らの相手はしてられなかった。彼らの相手ができないことを説明した。それでも毎週電話してきては長電話したがる友人もいた。

 

僕の他の友人たちからすれば、僕がそんな彼らとの友人関係を続けるのかよく分からないらしい。僕もよく分からないけれども、彼らに対してそこまで嫌悪感もない。幼稚だと思うし、おかしいとは思うけれども、割と平気だった。

 

うちの母は、そんな彼らの仲間だった。

 

母は友達が少ない。仲のいい友達ができてもすぐに揉めてしまって関係が終わる。友達ともめてしまうことも、母は自分のことを自分勝手な人間だから仕方がないと思っているらしい。習い事の仲間だけで十分だと今では思っているみたい。習い事の時間だけ共にする仲間。

 

母に育児が大変だって話をした。やっぱり自己責任論中心の反応だった。「子供はたいへんに決まってる」「私だってたいへんだった」そんな話ばかりだ。僕は3歳くらいから記憶が明瞭にあるから、母の育児のことを母以上に覚えている。当時のことを話すと、「そうだったっけ?」の連発だ。3歳の僕と2歳の弟はよく放置されていた、よく迷子になっていたし、知らないおじさんにも話しかけられた、2人だけで知らない家に行ったこともあるし、怪我もしょっちゅうしていた、近所の美容室に定期的に預けられていたし、ヤクルトのおばさんの家に弟と2人で泊まったこともある、布団たたきでよく叩かれたし、布団たたきを隠したら掃除機で叩かれたこともある、僕の左手にある2cmほどの傷跡は母からサランラップ的な物を投げられたときに刃の部分が当たって切れて血が止まらなくなったときの傷だ。他にもいくつか傷が残っている。頬の傷は指輪をした母に引っ叩かれてついた傷だ。母の育児はそんな感じだった。

 

「母さんの育児はいまの時代じゃできないし、虐待だと思われるよ」

 

「でもたいへんだったのよ、お父さんは育児なんてぜんぜんしてくれないし」

 

「それは大変だったね。責めてるわけじゃないんだ。ただ、育児に疲れて困ってる人がいるのに、やさしくもできないのはちょっと情けないよ、いい歳なんだからさ」

 

「そうね」

 

あるときから母は僕の言うことを素直に聞くようになった。とはいえ、根は彼らと一緒だから、「そうね」と言っても、次に話せば同じことになる。何十年と同じ話をしても変わらない。彼らと僕が付き合えるのも、母が彼らの仲間だったから慣れているというだけなんだろう。

 

優しくなれない人というのがいる。彼らは表面的には優しい人であることが多い。困ってない人には優しい人だ。だけど、困っている人がいたりすると、とたんに厳しい人になる。それは彼らこそが困っている人だからなんだ。「自分の方が困っている!」と強く思ってしまうからだ。彼らはいつでも被害者だ。そして被害者だから何をしてもいいと思ってしまう幼稚さがある。

 

彼らの傷は癒すことができない。

 

ネットのコメントで「親のわがまま」「育児がたいへんなのを知らないで子供を産むな」「子供がかわいそう」「バカ親」などと書いてしまう人たちは、自分ではどうにもできないくらいに何かに傷ついてしまっているのだろう。年を取れば取るほど友達もいなくなり、頑固になり、助けてくれる人もいなくなる。どういうフォローが必要なのか僕にも分からない。