いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

ママに困る!(自閉症児篇)<2歳の目標はママと呼べるようになることだった>

「目標は達成できなかった」(長女2歳)

 

困ったことがあった。

 

1歳6ヶ月をすぎても、長女の発語はなかった。「あー」とか「うー」とかそう言ったのはあるし、「ダー」という発声もあったが、単語として聞き取れるものはほとんどなかった。

 

「ダー」と言う言葉を連続的に発声し、「ダーダー」となることがある。アメリカでは父親を幼児語で「ダダ」と言う。そのうち、ダッドとかダティになる。ダディで郷ひろみを思い出す世代。

 

ダダと聞き取れたことで、「ダダ」という単語を言ったといえば言ったことになるとして、喜んだりもしていた。アメリカの育児書にも最初に「ダダ」と言うけど、「ママ」は悲しまないで、みたいなことが書いてある。この後、すぐに「ママ」と言うだろうと僕らは考えていた。

 

「ダダダダー」だんだんと、「ダ」が増えてきた。それに、妻が「ダダはどこ?」と言っても反応しない。ただ、僕のことを見ると、「ダダダー」とか「ダダダダー」とか言うので、きっと、長女は僕のことを「ダ」の何かだとは認識している感じはした。

 

発達の遅れから長女の行動をいろいろと調べてみると、発達障害の可能性があると思った。そして以前に書いたアーリーインターベーション(早期介入)に申し込んで、毎週訪問してもらうことになった。

 

そこでは、発達の目標を最初に設定した。

 

長女の目標は、「ママと認識して呼べるようになること」「別の部屋などに言って姿が見えなくなった父親について、ダダはどこ?と聞いたときに、指差しができるようになること」というのが2歳までの目標になった。

 

二つの目標は達成できなかった。

 

妻は懸命に長女の世話をして、いろいろなところに連れて行っていた。同じような月齢の子がペラペラと話しているのを見て落ち込んだりもしていた。なにより、「ママ」と呼ばれないのが辛いみたいだった。仲のいい二組のアメリカ人夫婦がいたが、1人の子は長女の半年年上だけど、長女と同じように発語がない。長女の2ヶ月くらい年上の子は、流暢に話していた。しかも三カ国語を操っていた。

 

長女は三カ国語を操る友達のことが大好きで、2人でいると双子のようにも見えた。比べてはならないと思いながらも、ついつい比べてしまって落ち込むこともあった。その子はイヤイヤ期(アメリカではテリブル2と言っていた)になっていて、育児は大変そうだった。成長の早い子の方がイヤイヤ期はハードな気がする。きっと頭でできることと体でできることの差が大きいから、その差があるだけハードなイヤイヤになってしまうのだろう。

 

長女はわずかだけれども、発語するようになった。

 

アーリーインターベーションで最初に言われたのが、「ジシ」という長女が発する音は、「This ディス」だということだった。ただこれも、なんでもかんでも「ジシ」と言っていたので、明確な発語ではなかった。

 

そのあとも、アーリーインターベーションの成果もあって、発語する単語のようなものが増えてきた。また、発語ができない長女も、ベビーサインでいくつかのことも伝えるようになってきた。

 

長女は偏食も酷かった。そのためパウチになっている果物が貴重な栄養源でもあった。毎日5パックくらい食べていた。

 

「ア パウチ」

 

と突然言い出した。日本人には抜けがちな不定冠詞をつけている。パウチをあげて、飲み干して、ベビーサインで「もっと」と伝えてくる。長女とのコミュニケーションがとれるようになると、僕はすっかり2歳までの目標のことを忘れて、長女の成長を楽しむようになっていた。そう、僕のことは「ダダ」とはっきりというようにもなってきていた。

 

「ママ」はまだなかった。

 

2歳もすぎた頃、妻が「ママってまだ言えないね」と落ち込んでいた。僕はダダと言われるようになっていたので、そのうち呼んでくれるよ、なんて言っていた。妻が落ち込んでいるのをあまり気にしなかった。

 

しかし、今から考えてみれば、妻は必死になって、長女の発達障害に向き合って、いろんなところに電話をしたり、相談したりして、長女のためになるようにと頑張っていた。その頃は双子も妊娠していて体もきつかったはずだ。

 

発達関係は、関係者と英語でやりとりしなければならないということもあって、英語がそんなにできない僕では電話したりするのは難しかった。電話での英語はさらに聞き取りにくい。

 

僕は長女を公園につれていく日課はあったけれど、公園で遊んでいるだけだと、長女の発達障害と向き合う機会は少ないし、ダダと呼ばれたり、ベビーサインで伝えてもらえれば、公園くらいはどうにかなる。妻の苦労があまりわかっていなかった。

 

長女の発達に対して尽力している妻のことを長女が呼べないというのは皮肉なことだと思った。妻は「ママ」と一言いわれたら救われる気持ちだったかもしれない。

 

2歳3ヶ月頃、アーリーインターベーションの熱心な指導もあって、「ママ」と言えるようになった。帰国前にどうにか目標の一つは達成できた。

 

ママと呼ばれたときに妻が喜んでいたのは覚えているけど、当時の記憶はぼんやりしている。自分がとっくに「ダダ」と呼ばれているから調子に乗っていたというのもあるけど、僕は僕で、双子の育児がとても大変で、毎日ぼんやりしていた時期でもあるから、許して欲しい。

 

そのあと、長女はこれまでの「ママ」という発語の回数を取り戻すべく、毎日何回も、何十回も時には100回以上も「ママ」と呼んでいる。「ママ、ママ、ママ、ママ」繰り返し呼んでいる。

 

「ママ、ママ、うるさい!」

 

と妻が怒ったことがあった。あんなに熱望していた「ママ」だけれども、ずっと言われるとなると、それはそれできついらしい。焼肉の食べ放題に行って、お腹いっぱいなのに誰かがお肉を追加してしまった感じかもしれない。