いつも困っている

家事と育児(三人姉妹で二人は双子)に対峙する男の日々

朝食に困る!(主夫篇)<概念としてのトマトを中心に概念としての朝食を摂る>

「トマトと牛乳って一体なんだろう」

 

困ったことがあった。

 

僕は毎朝同じものを食べる。日本とアメリカでは全く同じものが手に入るわけではないから、環境が変化したときには落ち着かない。また、お皿の上に何をどこに置くかも決まっている。お皿が変わったときも落ち着かない。糖尿病治療のときにも少し変化した。環境の変化に合わせて定番化すればずっと同じになる。

 

いまは手作りのブランパンにチーズとレタスとハムを挟み、皿の手前にトマト、そしてクリームチーズ。トマトは右でクリームチーズは左。手前から食べていくことで、手についたチーズやトマトのカケラは、パンを持つときに拭き取られ、一緒に食べる。サンドにするために重要なのは最初にチーズをパンの上に敷き、その上にレタスをのせること。そうしないとレタスの水気で下にあるパンがふにゃふにゃになってしまう。

 

僕以外には全く役に立たないどうでもいい僕の朝食の内容。そこにヨーグルトと牛乳がたくさん入ったコーヒーがあるけれども、だからなんだ、という話でもある。

 

たまに買い忘れてしまって不足しているものがある。クリームチーズであれば他のチーズにもできるし、レタスがなければキャベツにすることもある。ハムがないときには他の肉を焼いたりもする。ブランパンがないときは妻のパンをいただくこともある。しかし、困るのはトマトだ。そして牛乳。この二つだけは替えがきかない。

 

朝食にトマトがないと、ひどいときには理性を失う。そんなときは朝食をとらないことで理性を取り戻す。最近では、朝食ではないとか言いながらグラノーラを食べることで落ち着きを取り戻せるようになった。僕はトマトを吸って乳ばなれしたと母から言われていた。

 

トマトはアメリカ大陸で発見された。アメリカではトマトで困ることはない。スーパーでトマトがないことなんてありえないし、トマトがたくさん入っているパックもある。トマトがなければすぐに買いに行けたし、種類も選びたい放題。といっても一種類しか食べない。

 

トマトは高い。日本でもアメリカでもトマトは高い。

 

安いトマトを見つけた。これなら毎日食べたって、緊縮財政中の家計も圧迫しない。毎日そのトマトばかり食べていた。普通のトマトの半額近い値段だ。素敵なトマトだった。

 

食品のことを探求するドキュメンタリーを見ていた。アメリカ大手の食品企業の闇を暴く内容の番組だった。

 

「概念としてのトマトを食べている」

 

そんなことを言われてしまった。僕が食べているトマトはトマトと似て非なるトマト。トマトとして作られているが、トマトとしての成長をしていないトマトであって、それはもはや概念としてのトマトだということだった。青いトマトを人工的に熟成させるとかなんとかだった気がする。映画で見たセリフを思い出した。「トマトが赤くなっているんですよ、なんでなんですかね」、なかなか強烈なセリフだった。

 

僕はトマトの概念を食べていた。何かが崩れるような気持ちになったけれども、そもそも僕の朝食は、朝食という形式のみを満たすためだけに行っているようなもので、朝食という概念を食べていたような気もする。「概念としてのトマト」と言われたところで、崩れていくものなどなかった。概念で精神の安定をはかっていただけだった。

 

帰国してから食べているトマトは概念としてのトマトなのか、名実ともにトマトであるトマトなのか調べていないから分からないけれども、おいしいトマトが食べたいということで少しお高いのにして、名実ともにトマトなトマトであると信じている。しかし、少しお高いからと言ってそれが概念としてのトマトではない証明にはならない。近所のスーパーの半額以下のトマトを買わなくなった。

 

牛乳も濃い牛乳を買っていた。成分を見てみると牛乳ではなさそうだった。毎日飲んでいた牛乳も概念だった。

 

「概念としての牛乳を飲んでいる!」

 

僕が言うと、妻が笑っていた。