「ピータンの棚」(長女5ヶ月)
困ったことがあった。
ボストンに着いた日、滞在先に落ち着いたのはいいけれども、お腹が減っていた。その日は疲れているから寝てしまうとしても、朝起きたらすぐに何か食べたくなる。冷蔵庫にはケチャップとマスタードが入っていた。これらを食べ物と判断するほど飢餓状態ではなかった。
洗濯機を回して外に出た。一人で。
アメリカは治安が悪いから夜中に一人で出歩かない方がいいって日本では言われた。モールデン駅があるオレンジラインはボストンでも治安が悪いことで有名らしい。
Googleマップで、ミニマーケットとスーパーマーケットが徒歩圏内にあるのは確認していたから、まずは近くのミニマーケットに入った。
柄の悪そうな兄ちゃんが二人、ビールを飲んでいた。カウンターの女性も迫力があるタイプだ。ビールが飲みたくなった。栓抜きが家にあったか確認していなかったけれども、栓くらい手で開けてやるさ、というような雰囲気を出してビールを6本買った。それと店の雰囲気に合わせてタバコも買った。ビールは一本2ドルもしないのに、タバコは10ドル近くした。誤算だ。
「タバコ高えな(英語)」と言うと、兄ちゃんたちが笑った。僕はこの町に受け入れられた気がした。
買い物の目的は朝食セット。パン、卵、ハム、そしてトマトとかレタスとか。その辺が欲しかった。ミニマーケットを出て持っていたのはビールとタバコ。印象で申し訳ないけれども、柄の悪いアメリカ人に僕はなった。
家に戻ってビールを置いた。そして家の外でタバコを吸うのが一般的なアメリカの習慣に合わせてタバコを吸った。ストリートとの一体感を味わった。パールストリートという名前。
暗がりに男が二人いた。絡まれるかと思ったら、普通に道を開けてくれた。もしかしたら、僕が育った地元の方が治安は悪いかもしれない。
スーパーマーケットは大きかった。中華系スーパーマーケットの迫力はすごい。なんだか分からないものが店先にあったが、じっくり観察する余裕もない。店の中は肉と魚と野菜の匂いが混じったような異国情緒を感じる匂い。
野菜はドーンとある。サニーレタスとトマトはあった。次に牛乳も細かい成分表示は分からないながらも手に入れて、インスタントコーヒーも見つけた。ハムもたくさん入っているのがあった。パンはなかった。中華まんの中身がないようなやつがあったからそれを手に入れた。そして卵。
誰がこんな光景を予想しただろう。ピータン好きにはたまらない光景だ。ピータンが選びたい放題だ。
残念なことに僕はピータン愛好家ではなかった。探しているのはピータンじゃない、ピータンは年に一回食べるかどうか。好きとか嫌いとかいうよりも食べる機会があまりない。だから、今回もピータンは買わない。ピータンになる前のやつが欲しい。
何周も回った。だけどピータンしかない。卵はどこなんだ? もうピータンでいい。そう思った。パンにしても中華なパオズみたいなのにしたじゃないか、だったら卵だってピータンでいいはずだ。どうせ生卵で食べるんじゃない、ロッキーするわけじゃないと。
そのときの僕は頑なだった。ピータンを買わなかった。柔軟性に欠ける行為だったと家に帰って反省した。妻にピータンの棚の話をしたら涙浮かべて笑っていた。